平方録

友人R 逝く

昨夜、北陸の友人Rの訃報が飛び込んできた。
5月に体調不良を訴えてきていたのだ。それからいくらも経っていないから、呆然とするばかりだ。
確か、私より4、5歳若いんである。
奥さんによれば進行性の肺がんだったそうだが、それにしても…という思いである。

病気と聞いて円覚寺の横田南嶺管長の著作とともに手紙を送って励ましたら、本人からお礼の電話がかかってきたそうだが、たまたま不在で声を聞くことはかなわなかった。
再び元気になってまた飲み歩くこともできるだろうし、その前にお見舞いにもいかなくちゃなぁ、と考えていたから、最後の連絡になるとは夢にも思わなかったのだ。
応対した妻は「声に力がなかった」と言っていたが、闘病中なのだからそこは致し方ないだろうと思っていた。

Rと初めて会ったのは2005年の5月である。
地方に拠点を張る業界の江戸家老たちが集まる会のゴルフ会だった。
三島でゴルフをし、熱海に移動して盛大な宴会を開いた翌日、1人でMOA美術館に行ったところ、Rも見学に来ていたのである。
大概の江戸家老たちは新幹線でサッサと東京に直帰したが、ゆっくり絵を鑑賞する余裕を持った男だったのである。

何となく一緒に見て回り、帰り際に「じゃあ、僕は鎌倉だから東海道線のグリーン車で缶ビールでも買って海を見ながら飲みながら帰る」と別れかけたところ、「あっ、いいなそれ。俺も乗る」と一緒の電車で帰ってきたのだ。
こういう酔狂がもう1人いて、3人の道中だったのだが、ひょんなことから中華街で一杯やろうという話になり、その場で日取りを決めたのである。
生きつけの店に案内し、二次会でサントリーレッドしか置いていないバーに連れて行き、松の実のつまみをかじりながらレッドをストレートであおったんである。東京オリンピックの時代で時が止まってしまったような店で、氷なんて気の効いたものは出ないバーだったのだ。
その帰りの電車で別れ際「3人でまたやろうよ」という事になり、名前も「レッドの会」と即決したんである。

それ以来、カミさんたちも交えた付き合いとなり、交流を深めあったのである。
江戸家老の勤めを終えて国元へ帰った後、純粋な性格だった故、随分と直言もしたんだろうと思う。ボードメンバーにもなっていたから、その責任感ゆえの振る舞いだったと思うのだが、突然閑職に追いやられたりもした。
しばらくは大人しくしていたようだが、大立ち回りも演じたらしく、一度は復活したかに見えたのだが、そう簡単でもなかったようだ。

最後は失意のうちに会社を去ったようである。
その辺は大なり小なり、似たような足跡である。類は友を呼ぶの例え通りなのが不思議だ。
その辺りのモヤモヤもようやく晴れかけてきたんじゃないか、と思っていた矢先の病魔だったのである。
自由人になってこそできる付き合いを、これから重ねて行こうと楽しみにしていたんじゃないか。

奥さんとは「神田川」の世界そのままに、学生時代に結ばれたオシドリだった。
奥さんを残して逝ってしまったRの心中もそうだが、残された奥さんの心の内を思うとやり切れない。
今年の年賀状には、下手くそな字で「岸壁のバスで飲み会。また連れて行ってください! 」と書き添えられてあった。
何だよ、自分から頼んでおいて、連れていけなくなっちゃったじゃないか!

禅の世界では「人はまったく何もないところから、この世に生まれ出て、また、元の何もないところに戻っていくのみ」と教えられる。
そういうことなのだろうが、私の心の中には、少し不器用で万年青年のような、ちょっとはにかんだような笑顔のRは生き続けるだろう。


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