平方録

玉虫色の懐かしさよ

午前中の太陽が十分に高度を増して輝いている下を散歩していると、背後から首筋をかすめてボクの頭の周りをまわるように虫が飛んだ。

比較的大きな虫で、思わずよけようとしたら太陽の光を受けて緑や赤、青の金属的な光沢を帯びた色彩が目に入った。
あっ、タマムシ! そう気づいた時にはすでに頭のてっぺんに達しており、そのまま弧を描きながら高い木の梢の中に消えて行ってしまった。
去年も一昨年もタマムシを見た記憶がないので、少なくとも3年ぶりである。

早めに気が付いていれば手で叩き落としてでも捕まえていたのに……
明日から姫が泊りがけで遊びにやってくる。まだ見たことはないだろうからちょうどよかったのだけれど、惜しいことをしたものである。
あの細身の体と光沢はたぶんヤマトタマムシというやつだろう。

光り輝いている表面の翅は死んでも光沢を失わずに輝き続けるので、古くから装飾品として使われてきた。
なかでも法隆寺に残されている「玉虫厨子」が有名だが、多分見ているのだろうが、残念ながら記憶がない。
(余談だが、この場合の「キオクがない」というのは、最近東京の永田町の一角で頻繁に使われたものと違って、正しい使い方である)
奈良に行けば今でも7世紀のタマムシの輝きを見られるのかと思ったら、すでに剥がれ落ちてしまってほとんど残っていないそうである。
天平の昆虫の輝きというものを味わってみたいものだが、それはもうかなわないのが残念である。

それにしても一体どれくらいの数のタマムシが使われたことか。
何度もレプリカ制作が企画されたようで、そのうちタマムシの翅が足りなくて制作断念してしまったものもあるらしく、その未完成品を引き継いだ日本鱗翅学会が、全国の昆虫採集家や小中学生に呼び掛けて集めたタマムシを使った完成品が大阪の高島屋に残されているそうである。
1960年のことだと言うから60年近くも前のことである。
今集めるとなると、多分、列島は上へ下への大騒ぎになることだろう。

日常、言質を取られまいとする政治家がどちらとも取れるようなあいまいな発言をすることを指して「玉虫色の発言」などと言う使われ方をされるせいか、この言葉に限ってはあの美しさとは裏腹に歯切れの悪さ、もっと言うと胡散臭い印象さえ付きまとう。
タマムシにとっても迷惑この上ないに違いないが、最近はこれをはるかに上回って玉虫色の発言で何となくその場をかわすというよりも、きっぱりと嘘八百を並べて平然としているような政治家が目につく。

つい最近クビ同然に辞めた女大臣などその典型中の典型である。
右寄りの岸辺に立って日本の心・精神を大切にしようと言っているその口から、一番大切にしているはずの恥も矜持のかけらも感じられないような言葉が発せられるのだから、同じ岸辺の住人たちだって、さぞかし呆れたことだろう。

タマムシが日常的に見かけなくなってしまったことが「玉虫色」に代表される、ある意味でなにがしかの幅の広さを備えた一種の〝余裕〟まで奪ってしまっているんだろうか。
やはり優美さというものを忘れ去ってはいけませんな。















以上「七里ヶ浜に夏が戻ったぞぉ~」でした
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