来し方を振り返ってみると夏の暑さの中に忍び寄る秋の気配をかぎ取ってはそれを口に出して「もう秋の気配だなぁ」などと悲しんだりすると、家人らは「まだ十分に夏なのになんて気の早いことを。せっかち過ぎる」などと笑われたものだが、自分でもそういう悲観的な考え方はどうかな? と思ったりもしたものだ。
それでも夏の盛りになると古今和歌集の「秋来ぬと目にはさやかに見えねども 風の音にぞ驚かれぬる」という歌などは作者が誰かなどにはとんと興味がないが、この歌の趣旨だけは実によく理解でき、それこそ家人に馬鹿にされようが「ボクの身体にはこういう歌を詠む古の日本人と同じ血が流れているのさ」と静かな気持ちになったものだ。
だから「あかあかと日はつれなくも秋の風」と芭蕉が詠めば、「そうなんだよなぁ…」としみじみ共感し、その気持ちは痛いくらいよく理解できるのである。
それが今年に限っては立秋が過ぎようが8月も残りあと数日となった今でも、実感として秋を感じることがない。
それが古希を迎えたことと何か関係があるのか、はたまた猛暑だ酷暑だと言われてもナンノソノ、今年くらい晴天続きの夏を十分に謳歌したことがないほどたっぷりと夏に浸りきっているから、ボクの周辺には秋の忍びよるスキも無いのかもしれないなどと真顔で考えたりもする。
例年と違って関東地方の梅雨明けは史上最速の6月29日だったが、昨日までたっぷり2か月は夏らしい夏が続いているのだ。
この先、暑さ寒さも彼岸までの言い伝え通り秋分の日の彼岸辺りまでは十分に暑い夏であってくれれば、今年の夏は「良い夏だった」と言えるだろう。せつにそう願っている。
それでもというか、ヒグラシは店じまいしてしまったわけだし、夏の食卓をにぎやかにしてくれたミニトマトもゴーヤもいつの間にか実の付き方が悪くなってしまっている。
このほかにバジルやリーフレタス、シソ、イタリアンパセリ、ルッコラといった葉物からは往時の勢いはすっかり消え失せてしまった。
ただ、炎暑に休んでいたナスだけがひとり薄紫色の花をたくさん咲かせ〝嫁に食わすナ〟の秋ナスに期待を抱かせていところなのである。
昨日は朝から曇り空の珍しい日だった。
と言ってもどんよりした曇り空ではなく、俗に高曇りと呼ばれる今にも太陽が顔をのぞかせそうな明るい曇り空で天井も高かった。
それでふと思い浮かんだのが、こういうどちらともつかないような日は普段と違ったことをしようと稲村ケ崎の黄金の湯に浸りに行ってきた。
真夏の強い太陽にさらした肌をいくらかでも鎮めようという気持ちもあったのだ。
あの温泉は日本でも数少ない黄金色の湯で、浴槽にたまっている湯を見ると真っ黒に見える湯だが肌がすべすべになると評判で、のぞいたわけではないが入り口カウンターでロッカーのカギを受け取る時に見る限り、いつも女湯のカギの数が少なくなっているから期待が膨らむのだが、見かけるのは決まって「お年を召されたご婦人ばかり」で女心も現金なものである。
これに対して男湯は、見覚えのあるオジイサンが先客でいたが入れ替わるように上がってしまい、その後ボクが上がるまで45分くらい1人で広い浴槽を独り占めしてやった。
開け放たれた浴室から見える相模湾はべったりと凪いでいて、さすがにサーファーの姿はなく、ただただ蒸し暑いだけでやっぱり秋をしみじみと感じるには至らなかった。
最近のボクの句。
秋の虫猛暑で楽器ふやけたか
おしまい。
浴室からはこういう景色が眺められる
ほぼベタなぎの海
新田義貞の軍勢はこの岬の海に剣を投げ込んで潮が引くのを祈願し、潮が引くのを待って鎌倉になだれ込んだのだ
今朝のパンジーの苗床
もうぼちぼち芽が出そろってくるころかなぁ~
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