平方録

感心な若い人たちに混じって坐る連休最終日

毎日が日曜日の身なので、どこまで行っても連休は尽きることがないくせに朝起きると「今日は連休最終日だな」などと思いを巡らすのは現役時代の残渣がまだ体のどこかに残っていることに加えて、やれやれ、これでまた静かな日常が戻って来るぞという安ど感に他ならない。
ドクターストップが解けたので先月の下旬から自転車を漕いで毎日曜日に円覚寺まで通っているのだが、この季節の晴れた朝の自転車漕ぎはことのほか清々しいものがある。

大型連休中2度目の日曜日であり、最後の日曜日だからどうかな、集まってくる人数もたかが知れているだろうなどと思いつつ踏切を渡ると目の前には開門を待つ長い行列が伸びていてびっくりさせられた。
いざ開門すると入山料を払うのに時間がかかるため、ボクは通行手形を見せて通り抜け席を確保したが、大方丈の畳の上には入り切れない人が廊下にまであふれかえったのにも驚かされた。
特別の説教が加わる坐禅会には多い時は500人近い人が集まるが、坐禅中心の日曜坐禅会でこれほど多くの人が詰めかけたのは初めて見た。

考えてみれば、休みの日に早起きをして坐禅に参加してこようと考え実際に行動するということは、それほどたやすいことではない気がする。
横須賀線の電車が北鎌倉駅に到着するたびに入山料支払いの窓口の列が伸びるから、遠くからやってくる人が多いのだろう。それだけに感心なことだと思う。
今世の中は禅がブームだと言うが、う~ん、さもあらん、という思いである。

確かに、一人でぽつねんと座り、何ぁ~んにも考えないでじっと姿勢を正しくしているというのは、現代社会にあって極めて非日常的な行いであるように思える。
休みの日をつぶしてまでわざわざ禅寺まで足を運び、そういう時間を持ちたい、必要であると考えている人が増えているということなのだ。
特に若い人が目立つ。これを感心なことと言わずして何と言えばよいのだろう。

横田南嶺管長も心得たもので、このところの普段の日曜日は「盤珪禅師語録」という江戸初期の禅僧が残した教えを提唱してくれているのだが、この日は普段通ってこれない人が増えるということを織り込み済みらしく「禅の心得」を提唱したのだった。
円覚寺初代管長の今北洪川老師の教え「禅海一瀾」の第一則「明徳」から「禅では止定静慮が大事である」という基本を説いたのだ。
意味するところは「心の動きを止めて雑念を消し、その状態を保ちながら、やがては物事を良く観察し、知恵を働かせて良く考えてみる」ということのようである。
「その繰り返しが坐禅である」とも。

とまぁ、頭では何となく理解しているつもりだが、最近は次々に湧き上がってくる雑念払いに追われるばかりで先に進めず、なかなか簡単ではないのである。
簡単に言えば「修行が足らん! 」ということになるのだ。




坐禅を終えて大方丈を出たら、ボクと同じ目の高さの石垣の上にカメが顔を向けていた。カメラを近づけたので首をひっこめたが、ボクの目の高さだから1・7メートルくらいの高さがある。いくら頑丈な甲羅を身にまとっているとはいえ、落ちたら相当な衝撃だろうと思って見ていると…


カメはくるりと方向を変えて横伝いに進み、やがて石垣の奥の地面が広がる方に消えた。きっと縁の下あたりで横田管長の話を聞いていたんだと思う。さすがは門前の小僧よりも近い〝門中の池のカメ〟である


ユキノシタが咲き出した。それにしても自然界というところはよくこんな意匠を考えつくものであることよ


<昨日のわが家のバラ>から 「バーガンディー・アイスバーグ」


同じく「ブラッシング・アイスバーグ」。まだ開いたばかりでピンク色が強く出ている


門柱の「バレリーナ」と一緒のクレマチス「アフロディーテ・エレガフミナ」がようやく咲き始めた
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