では空とはいったい何であるのか。
「これは心地よい」とか「心地良くない」とか、「あれは良い」「いや良くない」とか、人はさまざまに『決めつけ』をしてしまうものです。
そういう決めつけをしてしまう心を仏教の世界では「五蘊」(ごうん)といいます。
大般若経の教えの真髄をたった276文字で表しているとされる般若心経にも書かれている「照見五蘊皆空度一切苦厄」のアレです。
五蘊とは「悩み」「隔て」「もめごと」などの元になる。
心にため込んでいる五蘊の一切を捨てて心をカラッポにしなさいと教えているのです。
そして坐禅は心をカラッポにする最適の方法なのです。
昨日の円覚寺の日曜説教坐禅会での横田南嶺管長の説教を大胆に要約すると、以上のような内容になる。
普段の法話はもっと親しみやすく平易なものが多いのだが、いきなり仏教の真髄に分け入ったのだ。
ボクはいつもはメモなど取らないが、今回ばかりは慌ててペンと紙を取り出してメモを取り始めたくらいである。
日本で唯一の臨済宗の大学である花園大学が来月から来年3月まで全5回のサテライト講座を東京で開くそうで、そのトップバッターを引き受けて猛勉強中らしいのだ。
講座全体のテーマが「禅とこころ」で、そのトップバッターとして学生時代に学んだ大般若経を再びひも解いているのだとか。
般若心経の解説書などはたくさん出版されていてボクの書棚にも2、3冊鎮座してはいるが、鎮座したままなので正直言って身についているとは言い難い。
そういう状況で毎回坐禅のたびに般若心経を唱えているのだからいい気なものだが、管長サンは優しい人だから「私たち僧侶だって意味を考えながら唱えたりしません。意味が分からなくったっていいのです」と言ってくれるが、意味が分かっていていちいちそれを思い返さないというのと、最初から意味が分かっていないというのでは天地の違いがあるというものである。
そんな危なっかしい状態だからこそ、丁寧に口で説明されると乾ききった土地に雨がす~っとしみ込んでいくように、なるほどなるほどと納得する部分が大きいのである。
五蘊の説明で「自分の見方、考え方にこだわるから『隔て』が生じてしまうのです」などと聞くと、なるほだなぁ、アメリカの45代大統領の口癖の「アメリカファースト」なんてのも「隔て」の典型だなぁと納得するのである。
奈良の薬師寺を再興した高田好胤和尚は生前「偏らない心」「こだわらない心」「とらわれない心」を口癖のようにしていたそうである。
誰かさんとは大違いだが、それこそ般若心経の心であり、仏教の心でもあるのだと横田管長は言う。
偏り、こだわり、とらわれから生じるものこそが五蘊であり、心にため込んだ五蘊をなくすために心をカラッポにすることは決して空しいことではないのです。
心をカラッポにしてみなさい、そのための坐禅なんですよ-というのが結論のようであった。
わざわざ講義を受けに来なくても、以上が私の講義の概要ですよとエキスを話してくれたわけである。
ありがたいことである。
今の時期、円覚寺の境内で盛んに咲いているのはフヨウくらい=選仏場脇で
ヤブラン
マンジュシャゲは間もなく開花しそう
こちらの白いマンジュシャゲも開花を待ってい=居士林
上がムラサキシキブ、下はシロシキブ=黄梅院
シュウメイギク=黄梅院
カリガネソウ=松嶺院
城塞のような松嶺院と三門。松嶺院にはオウム真理教追求ののろしを最初に上げて殺害された坂本堤弁護士一家3人が眠っている
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