もともと春愁なんてものは実態があるものではなく、そもそも曖昧なものなのだ。
そういうあいまいなものに心をつかまれるということ自体が春愁の特徴であって、大胆に言えばヒトの心のどこかに、というかボクの心の片隅にはそういう実体のないものに身をゆだねて荒海に落ちた一片の木の葉のように翻弄されてみたいという自虐的な思いに似たような感情がこの短い一時に現れる。
別な言い方をすれば、急に春めいて活動を活発化させたいと思い始める心と、急にそんなこと言われたって準備ってもんが…と慌てる肉体との間で何らかの調整が必要で、動き始める前のアイドリングみたいなものを指すんだと思う。
だから話は簡単で、アイドリングを一定期間しさえすればエンジンが暖まり次第、活発に吹かすことができるようになって、モヤモヤ感は吹っ飛んでいく。
これが長引くということになると心と体のいずれか、あるいは双方に別な原因が生じていて、そうなるといくらアイドリングを続けても意味はなく、部品そのものの修理の必要に迫られるということなのだ。
修理が済まないうちに活発化させようとすれば、状態はさらに悪化してしまう。
慌てるのが一番いけないことで、禅宗で言うところの「啐啄(そったく)の機」とか「啐啄同時」と言うように、大きな成果を得るためにはタイミングというものが必要なのだ。
季節の変わり目にまだ心も体も十分対応できないでいるところに、温かな空気がやってきて活発な行動を促すものだから双方ともに戸惑ってしまうのだ。
そうなれば誰だって焦る。
焦ってそれが解消できるなら焦りまくればいいだけの話だが、実際はそうはいかない。
だからこそアイドリングが必要なのであって、心と体の啐啄が重なるのを待つしかないのだ。
その様子を客観的に見守ってみるというのも、あながち悪いもんじゃないと思う。
俳句の世界では物事を洒落のめして捉えてみるというやり方がある。
要はその境涯を楽しめるかどうかってところだろう。
そういうところからあっと驚くような切り口やクスリと笑える絶妙な表現というものが現れて来るんだとも思う。
今年のボクは十分に楽しむ前に春愁は去りつつあるけれど…
徹底的に洒落のめして楽しむ!ってのに魅力を感じるけどなぁ。
三浦半島の春キャベツと富士山
台地の上に見渡す限りのキャベツ畑が広がる
別の谷越えの場所から
強い南寄りの風が吹いていて東京湾には羊の群れがいっぱい
三浦海岸の浜辺に下りると対岸房総半島の鋸山が正面に
ちょっと近づいてみる
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ひろ
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