今年の臨済宗の宋祖・臨済禅師の千百五十年忌と来年の白隠禅師二百五十年忌について書かれたもので、3月に京都の東福寺に全国40か所の修行道場から230人もの雲水が集まって「攝心」と呼ばれる坐禅修行を行った時のことが記されている。
その中に、特に心に入りこんできたことがあった。
それは「大切なものを外に向かって求めるな、自らのうちに向かって求めよ」ということ。
人間は仏の心を持ってうまれてきているのだが、それに気づかず、大切な教えは外にあると思いこんで、あれこれ動き回り、探し回るが、実は自分の心の中にすでに大切なものが備わっているのだ、という考え、教えなのだ。
まぁ、なかなかピンとこないのだが、横田管長は次のように説明している。
南禅寺の中村文峰管長が「一無位の真人」について提唱し、「あなた方のその身体には、何の位にも属さない素晴らしい真の人がいるぞ。まだ気がついていない者は、よく見ろ、見ろ」と示されました。
一無位の真人とは、何の地位や名誉、財産、学歴などにも決して汚されることのないすばらしい真の人間のことを指しますが、別の老師は言葉を変えて「わたしのなかにもうひとりすてきなわたしがおる」と表現されました。
真人とはすてきなわたしであって、それは私が善いことをすれば心から喜ぶし、悪いことをすれば素直に反省することができ、どんな状況におかれても、常に穏やかに相手を思いやることができる心です。そんな素晴らしい心を人は生まれながらに持っていて、臨済禅師はそれを決して外に向かって求めてはならないと戒められたのです。
外に求めず、静かに坐って、今ここに聴いているものは何者かを求めることが大切であります。誰にも奪われることもない、自らの心を澄ませて自らのうちに向かってすばらしい宝を求めることが、坐禅であり攝心なのです、と。
要するに、人はどう生きたらよいか、答えを求めてウロウロするが、何のことはない、答えは自分自信の中に初めから備わっていて、それに気づかないだけだ。自分の心に聞けば、おのずから答えは見えてくる、ということらしい。
で、横田管長は「普段は忙しい毎日を送っていても、一日一度は静かに坐る時を持ちたいものです。釈宗演老師は、まず朝目が覚めたら、一時でも静かに坐ろうと仰せになっています」と心を整えることを勧めるのである。
「もうひとりのすてきなわたし」に会いに行けと。
昨日のブログで、家じゃぁ落ち着いて坐ることができない、とぼやいたことが恥ずかしい。
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