2か月ほど前に脳こうそくで倒れて入院していたのだが、生命力が強いと見えてホームに戻ってこられたのだ。
もっともまだ寝たきりのままだが、失っていた言葉も少しづつ回復しつつあるようで、ホームで世話をしてくれているスタッフの人たちも驚いていた。
祖母も97、8歳まで身の回りのことは自分でできるくらいにカクシャクとして生きた人だったから、叔母も病に倒れたとはいえ、長生きの血は引いているのである。
午後2時前に着いたので、ウトウトと寝ているところを起こしてしまったのだが、甥のボクのことは分かったらしく、声をかけると目を見開いてこちらをじぃ~っと見つめ、少し驚いたようでもあった。
元気だったころに会いに行くと、「遠くからわざわざありがとう」といつも恐縮していたから、今回もまた内心では恐縮して言葉を出そうとしたのが、思うようにいかないので目を見開くだけになってしまったようである。
妻が話しかけると何やら言葉を発しようとして、結局言葉にはならなかったが、ちゃんと反応はあるので安心した。
時間をかければ、もっと良くなっていくだろう。人間という生き物の強さを垣間見る思いだ。
10分足らずの間、いろいろ話しかけてみたが、もともと回復途上の病人で、しかも高齢である。途中で再びスヤスヤと寝入ってしまい、しかも、そろそろ入浴の時間だと言って血圧を測りに来たので、それ以上いても何もできないので辞去してきた。
叔母は7人兄弟姉妹の真ん中の3女である。
7人のうち今も元気でいるのは叔母と5女の2人きりになってしまっている。
結婚には失敗して子供もなく1人で生きてきたが、年齢が近いこともあって妹であるボクの母とは特に仲が良かったんである。
90歳を機に姪たちが心配して老人ホームに入ることを勧めたのだが、あのまま一人暮らしを続けていたら、今回の病でどうなっていたか。
病気の初期対応から病後のケアも含めて、姪たちの判断がなけれ面倒なことになっていただろう。
ボクの母は50歳そこそこで亡くなったから、叔母には母の分も長生きしてもらいたいのだ。
ところで、母方の親せきというのが特筆もので、叔母も含めてそろいもそろって「絵にかいたような善人」たちなんである。
男も女もみんな穏やかな性格で、しかも決して「自分が自分が」とはいわず、何事にも「お先にどうぞ」といってニコニコしながら自分たちは一番最後に回るような人たちなんである。
しかもよく働くんである。勤勉実直ってやつである。
驚くのは、似たもの夫婦とは言うが、それぞれの連れ合いもまた善人たちで、日本には嫌なやつとか、悪賢いやつとか、乱暴者だとか、女癖が悪いとか、酒乱とか、そういう類の面倒な輩は一人もいないんじゃないかと思えてきてしまうほどなのだ。
兄弟姉妹同士の仲の良さはもちろん、子どもたちに至るまで何のトラブルもない。
こういう人たちを見てボクの妻は「サザエさんの一家を見ているようで、こういう家族って本当にいるのね。いい人たちって、こういう人たちのことなのよ」と半ばあきれ顔で言うほどなのだ。
禅宗では「衆生本来仏なり」と言い、人間は生まれながらに仏の心を持って生まれてくる。しかし、多くの人間はそれに気づかずに他を探し回るが、なかなか見つからないでさまよい歩くのだ。だから自分の中に在る仏性に目覚めなさい、気づきなさいと説くのである。
善い人たちというのは、本人の意識とは別に、仏性そのものが自然と表れた人たちのことを言うのではないかと思うのだ。、
そもそも日本人というのが、争い事を好まず、穏やかで、勉学を好み、コツコツと額に汗して働くのを旨とする民族なんだと思う。
そうした中で、時々の環境変化によって起こる外的要因を受けて善人ではいられなくなるようなケースが出てくるのだろう。
あるいは様々な欲に目がくらんでしまい、時代や周囲に波風を起こす人が出てきてしまうのである。
かくして、ボクも善人たち一族の端っこに連なっているのだが、妻が呆れたように言う「いい人たちって、こういう人たちのことなのよ」という言外に、「あなたはどうして、あの中にいないの?」という意味が含まれているのをしっかりと聞き分け、首をうなだれるのである。
これから円覚寺の日曜坐禅会である。急がなくっちゃ。修行じゃぁ~!
「空蝉」の1番花の、その中のトップバッターが開き切ったようである
🎵卯の花ぁ~ は匂い始めたが、ホトトギスの初音はまだである
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