50年も前の高校時代のことだけれど、今と違って人気のないサッカー部で3年間ボールを蹴っていた。
高校生と大学生では競技に対する考え方も多少は違ってくるのだろうが「相手の好選手をケガさせれば自分たちが有利になる」なんてことは思ってもみなかった。
第一、そういうのを「姑息な手段」というのであって、勉強はあまり好きではないから練習時間以外は本をばかり読んでいるような純真な少年の辞書に「姑息」とか「手段は選ばない」などという単語があろうはずがない。
チームメートも同様で姑息な考えを持つ奴なんて誰一人いなかったし、仮に誰かが言い出したらそいつは白い目で見られ、まずチーム内で半殺しの目に遭ったろう。
だから時々指導に来ていた先輩連中から「もっと激しく相手に当たれ」などと言われて試合中に相手が吹っ飛んで地面に転がったりして痛がったりすると、大丈夫かと心配になってゴメンゴメンなどと謝りながら起き上がるのを手助けする手を差し伸べたりしていたのだ。
監督って言ったって競技の経験のない先生が仕方なく付き添っているようなもので、手を差し伸べる光景を見た後などに「お前らスポーツマンシップに則ってるんだなぁ~」などとのんきなことを口にしたりしていたものなのだ。
「言った」「言わない」になっているようだが、どっちにしたって「相手のクオーターバックをつぶして来い」なんて発想は微塵も無かったのである。
聞いて、どこの世界の話なのかと唖然とした。
それにしても日本ではいつからリーダーが証拠や証言を突きつけられても非を認めようとせず、むしろ他人に責任を負いかぶせて自分は頬っかむりして逃げ切ろうとする恥知らずが増えているんだろう。
アベなんちゃらは加計学園の理事長の訪問を受けて問題の獣医学部新設計画の説明を受けたということが書かれた愛媛県庁の文書が出てきたにもかかわらずシラを切り続けている。
高校時代に戻ったつもりで純真な心のままに考えると、人の上に立つリーダーというものは他の人にない強い権限を持っているのが普通で、だからこそ周りはリーダーの指示に従って動くのだし、もし間違えればそれはリーダーの責任なのは言うまでもないことなのだ。
強い権限=権力を握るということは、どんな途中経過であろうがどんな結果になろうが最後の責任はすべてそのリーダーが負うものなのである。
それが掟なのだ。
並みの日本人であるならば、そうした掟が社会に存在するということは承知しているはずである。
それなのに掟に従えないというのは「自らに対する誇り」というものを持って生まれてこなかったか、どこかに捨ててしまったからなのだ。
誇りのない人間というのは自分自身を律することのできない人間と同義語だから、ちょっと厄介である。
今回、反則した選手が自ら記者会見をして謝罪し、一部始終を語った上で「好きだったアメリカンフットボールが好きでなくなりました」と言わしめたことは指導者にとっては恥以外の何物でもない。
それを耳にしてさえなお「私は(あの選手をつぶせなどとは)指示していない」と言い切る態度こそ恥知らずのお手本と言ってよい。
アベなんちゃらを見習ってコーチの忖度だとでも言いたいんだろうか。
あのマンモス大学はナンバー2のこの言葉を額縁に入れて全教室に飾るといいのだ。
それにしても、新聞で読んだ富永郁子さんという政治学者の評論が心にしみる。
曰く「一連の問題に『関与』がなくとも、忖度されるリーダーはそれだけで辞任に値する」「リーダーの意向を忖度する行動が、忖度する個人の小さな、しかし油断のならない悪を国家と社会に蔓延させる」と。
「ニュー・ドーン」がだいぶ咲きそろってきた
反対方向から見ると
「伽羅奢」も去年ほどではないが、だいぶにぎやかになってきた
「ゴールデン・フラッシュ」もようやく咲いた
クロアゲハ? がパンジーの蜜を吸いに来ていた。雨が降る前の腹ごしらえ
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heihoroku
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