平方録

田植えの済んだ田を見て思うこと

わが海辺の町から電車に乗り、東京を突っ切って埼玉も通り越し、さらに北上して利根川の上流を越える辺りにさしかかると、ようやく田園風景が広がるようになる。

そこで目を引き気持ちを安らかにしてくれるのが、水を張られてキラキラ輝く水面に整然と植えられて並ぶ稲の苗である。
さえぎる物のない一面広々とした水田の広がりが懐かしく感じられるのは、ボクの体の中に農耕民族のDNAが刻み込まれている証拠だろうか。
水田が途切れたと思えば、今度は金色に染まった大地のひと塊りが現れる。
麦秋ーーそう、たっぷりと実をつけた麦の穂が刈り入れを待っているのだ。

田んぼが広がるだけの景色なんて単調なだけではないかと言われればその通りなのだが、実はそう単純に決めつけられるものでもないのだ。
例えば、田植えの終わった田んぼにはサギの仲間の白い姿が見えるし、点在する家の形も同じものはない。田んぼの大きさだって形だって違うんである。そういう光景の一つひとつがボクにとっては嬉しいのだ。
田んぼの形が違えば水面が反射する光の色も、同じものなどあり得ないのだ。
だから退屈はしないし、むしろ車窓から眺める景色としては好みの部類に入るのである。

今まさに豊かな実りの現実と実りを求めて苗を植える作業が背中合わせの季節なのである。なんと平和で豊かな光景であることか !

最近、漢詩集をめくっていて気になる詩を見つけた。杜甫の「絶句漫興」と題する詩である。

舎西柔桑葉可#(手偏に占)
江畔細麦復繊繊
人生幾何春巳夏
不放香#如蜜甜(#=酉偏に草冠のない蓼のツクリ。香との一対の言葉でコウロウと読み、香り高い酒の意)

大意は、家の西の柔らかな桑の葉はもう摘み取っても良いころとなり、川べりの麦の若い穂もすいすいと伸びている。残されたわが命はどれだけあるだろうか、春はすでに夏になろうとしている。かぐわしい酒を蜜のように甘くさせずにおかれようかーーということである。
結句の言い回しは反語で「美味しい酒を飲まずにいられない」という意味だろう。

要するに、流れを止めない時がもたらす悲哀といったものを、このようにひねった言い方をしているところに、この詩の良さがあって魅かれるのだが、夏はとっくに過ぎ去り、秋も終わりに近付こうという季節を迎えているボクにとって、身にしみる詩でもあるのだ。










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