庭を考える

庭を通じて生活のあり方を考える。

外は雨

2018-09-30 10:58:41 | 日記

緑の少ない住宅街でも夏を賑わしたセミの声が、宵の虫たちの声に代わってきました。

あれほどの暑さをもたらした今年の夏も遠のいています。

しかしながら外は台風の影響で活発化した秋雨前線の影響で雨が降っています。前回よりさらに強い台風とのこと。この後も列島縦断の予想で油断ができませんね。

さて、雨が降ると私の仕事は休業 道具の手入れをすることとしました。

3丁の植木ばさみを手入れしました。刃にはヤニもつき小さな欠けもありましたが、砥石で磨きをかけ一新しました。

きれいな刃先は見た目もよいですが、握りも軽くなります。

また良い仕事をしたいです。

 

 

 


目に青葉・・・

2017-06-19 10:24:23 | 日記

6月も中旬に掛かり梅雨らしい天気が・・・

と云うべきところですが、東京はまだその印象には敵っていないようです。

それでもさすがに蒸し暑さは感じられるようになりました。

そんな時には・・・写真はクジャクシダの鉢です。

目に映るもので一服の清涼感を呼んでみました。

尚バスケットは妻の製作するナンタケットバスケットです。


少し遅れてやってきたバレンタインデー

2017-02-20 10:16:01 | 日記

昨日の午後 妻から夕方に○○○が、「チョコレートを持ってくるって!」とスマホを片手に話かけてきました。

○○○というのは私の娘のことですが、独立をし現在は婚約中の彼氏と暮しています。平日は仕事を持っているのでどうやら日曜日になったようです。

我が家は娘が二人おりそれぞれ31歳と28歳になります。子供の歳を数えると自分たち夫婦も歳を重ねたのだなと改めて思います。

妻と子供たちは日ごろからLINEで繋がっており頻繁に連絡を取り合っています。私は家族とは言え女子の話の中に加わるのはむずがゆく参加していません。妻が事あるごとにスマホの画面の文言や写真を見せてくれます。

28歳の娘はアメリカ留学中に結婚をしそのままボストンで暮らしています。すでに3歳の女の子の孫もおります。

したがってチョコレートをプレゼントしてくれたのは31歳の娘のほうです。夕方になりやってきた娘がくれたチョコレートがこちらです。

イタリアの有名なチョコだそうです。箱もおしゃれです。

当たり前のことかもしれませんが、いま家族関係は非常に良好だと思います。

子供たちが思春期の時には衝突もありました。夫婦の間でも衝突はありました。月日が経ち子供たちも家庭を持つようになり親の大変さもわかるようになり我が家なりに成熟してきたのかなと思うこの頃です。

少し前に庭に咲いたスノードロップです。地にしっかり脚をつけ歩いていきましょう。

 


東京オリンピック2020

2016-12-19 09:14:04 | 日記

東京オリンピック2020 フリークライミング出場に名乗りを上げたカマ田です。

見てくださいこのオーバーハングを人差し指?1本でこらえる姿。

チョークもクライミングシューズさえもつけず、一糸まとわずのこのポーズ。

早くも一歩先んじた!


八木重吉展

2016-11-03 15:51:32 | 日記

11月1日 東京都『町田市民文学館』で開催中の 八木重吉展 に行ってまいりました。

きっかけは新聞による開催の案内があったことからでした。

新聞に 八木重吉 の名前を見たときに忘れかけていた記憶がよみがえってきました。わずか29歳で夭折した詩人です。

それは40年余り昔 高校の合唱団に所属していた時に出会った曲でした。

雨 と云う男声合唱組曲で 多田武彦 作曲 6曲からなる組曲の第6曲が八木重吉の作詩による  でした。

雨のおとが きこえる

雨がふっていたのだ。

 

あのおとのように そっと世のために

はたらいていよう。

 

雨があがるように しずかに死んでゆこう。

You Tubeなどから視聴できます

 

 

 決して長い詩でもなく 麗句で修飾されているわけでもないですが、私の心のずっととどまる詩になりました。

また多田武彦氏の作曲で、一層情感の増すものとなっています。氏も「私の臨終における鎮魂曲として、私の心の奥に、刻み込まれてしまった。」と述べています。

それ以来ずっと八木重吉の人となりを知りたい気持ちはありました。しかし年月が経つうちにその記憶も見え隠れするようになっていました。

そこで新聞を見るなり行ってみようと思い立ちちょうどその日は学芸員の方の解説もありましたので、よい機会に恵まれました。

 文学館近くの芹ヶ谷公園

重吉は明治31年に現在の町田市相原町に裕福な農家の5人兄弟の二男として生まれ、豊かな自然風土の中で育った。勉強家母の影響もあり二男でもあることから教師への道へと進み東京高等師範学校(現筑波大学)に進学、英語も堪能なことからキリスト教と出会いその後洗礼を受ける。

24歳の時に、その後妻となる嶋田とみと家庭教師として出会う。一方で教師になることに失望した重吉は、詩の創作活動に入る。

信仰心を軸とし自然や家族への愛など当時不治の病とされた結核と闘いながら亡くなる5年間の間に3000余りの詩を詠った。

あまりにも不十分な略歴で申し訳ないが、おそらく信仰心と詩の創作が共存し死に対し正面から向かっていたのだろう。

私はすでに彼の倍生きている…

 

「私の詩」

(私の詩をよんでくださる方へささぐ)八木重吉

裸になってとびだし

基督のあしもとにひざまづきたい

しかしわたしには妻と子があります

すてることができることだけ捨てます

けれど妻と子はすてることができない

妻と子をすてぬゆえならば

永劫の罪もくゆるところではない

ここに私の詩があります

これが私の贖(いけにえ)である

これらは必ずひとつひとつの十字架を背負ふてゐる

手をふれることもできぬほど淡々しくみえても

かならずあなたの肺腑へくひさがって涙をながす

―「晩秋」

会期;12月25日まで