中学に入り最初の英語の授業だった。小柄で痩身、少々生え際が後退気味の金髪を短く刈ったヘアスタイル、ローマンカラー(学生服の襟を外し、カラーを前にはさんだ姿を想像して欲しい)の白人男性が教室に現れた。それがぼーずとフリン神父の出会いだった。
ABCDEFG。HIJKLMNOP・・・とアルファベットを彼の読み上げる通り復唱させられた。HIJKまでは普通に付いて行けるのだがLMNOPがどう聞いても『エロレノピー』と聞こえ戸惑ったのを覚えている。この時の教科書は神父がぼーずの学校に赴任してきた時、12年上の先輩達の為に彼がガリ版刷りで作ったものがベースとなった、Progress in Englishという本だった。
この本受験向きということで、今ではかなり有名な存在になっている。予備校の中にはプログレス科を名乗る所もあるそうだ。国公立はもちろん、上智、青学にはかなり有効な教科書と聞いたことがある。おそらくフリン師の志とは違った方で有名になってしまったが、チャートを使った反復練習と長文の物語を組み合わせた独自の教科書だった。その当時でもカトリック系の学校では広く使われていた。
さすがに中一では長い文章は出てこなかったが、イソップ童話の『キツネとブドウ』は暗唱出来るまで覚えこまされ、未だにOne day, A fox came into a farmer’s gardenという出だしが頭に浮かんでくる。映画『おくりびと』TV『相棒』で活躍中の役者、大谷亮介はリンゴ好きな師を引き合いに出し『教師とリンゴ』という創作をクラスで披露し、皆の喝采を浴びた。
彼の教え方はかなり厳しく、ある点を下回ると罰の単語書きを命ぜられた。生徒を殴ったことの無い人だったが、素行が悪いと早朝に登校させられ、マラソンをさせらたのは1度や2度ではなかった。またトップ20位、21~40位までの生徒で2つのグループを作り、時間外で英才教育を施す一方、ぼーず達出来の悪い生徒にも補習グループを作り鍛えてくれた。特別に教えてもらってないのは真ん中の連中くらいだったと思う。
顧問を務めるバスケでは常に一緒に練習し、紅白戦ではわざとファールをもらいに来るという執念を見せつけられたこともある。スポーツは万能、ソフトボールを外野からキャッチャーのダイレクトで返したり、25mプールの1往復に少し足りない40m位をノンブレスで潜水したりと中学生にとってはスーパースターだったといっていい。
放課後裏の六甲に登り、川原でソーセージやマシュマロを焼いて食べたりと、師の思い出は尽きない。丸ごと熾き火に放り込んだ紅玉りんごはきれいに皮がむける。キャンプで甘酸っぱいフリン式焼きリンゴを作るたびに当時を思い出す。アイスクリームを添えると立派なデザートだ。
本当に彼の凄さを知ったのは最近だった。ぼーずが生まれるよりも前から日本で子供達の世話をしてくれたのだが、彼はお兄さんを太平洋戦争で亡くしていたのだ。この話はいい年になって初めて聞いた。兄を殺した国の子供たちへ、彼は惜しみない愛を注いだ。それに引き換え今、自分は子供達に何が出来るのだろうか。答えはまだ出ていない。
ここへ続く
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