おそらく40分以上はかかったと思う。やっと実家にたどり着いた。庭に回るとケージに犬のヤンがおとなしく入っていた。扉を開けると、飛びついてくる。こいつは犬のくせに、性格は猫で、自分がその気になった時にしか愛想を見せない奴である。やっぱり寂しかったんだ。抱くと顔をなめ回してきた。
居間に寄り添う形で、コの字型に作られた四畳半ほどのケージに入り、鍵の掛かっていない雨戸とガラス戸を開けた。一緒に入ろうとするヤンを怒鳴りつ け、土足のまま家に上がる。電灯のスイッチに向かって踏み出すと、足の下でガラスが砕けるのを感じた。こんな危ないとこを裸足?で歩けば犬の肉球とて無事では済まないだろう。
電話で言われた通り、タンスに張り紙がしてあった。『3年2組に居ます』。台所はひどいありさまだった。食卓の上には食器棚の3段目がのっかって、床には食器の残骸が散乱、脚の踏み場も無い。靴を脱ぐなと言っていたのがよく判った。ふと気が付くと薄暗い部屋に、二筋の光が差していた。光をたどると柱と壁の間から庭が見える。隙間から差し込む光でガラスがキラキラと光った。第二次世界大戦前のドイツ、焼き討ちにあったユダヤ人商店の割れたガラスがキラキラ光ったと言うクリスタル=ナハト(水晶の夜)ならぬクリスタル=ツィマー(水晶の部屋)か。悪い冗談だ。
柱の下にはガラスの割れた掛け時計が転がっていた。昨年末、ガラスこそ無事だったが動かなくなり、亡くなった父が買ったものだったので修理に持って行けと母に頼まれた時計だ。『修理したってすぐ狂う。このまま置いときゃ1日に2回も正確無比な時刻を示す』と屁理屈をこね、そのままにしていた。修理代が助かったな。直ったとしても動いたのは20日余り。無駄になるだけだった。
今なら携帯電話で、たちどころに連絡がついただろう。当時、携帯電話はダンベル並の大きさで、体を鍛えるにはもってこいの代物だが、持っている人間は金持ちか、クラブ付き迎車担当の黒服ぐらいであった。公衆電話は回線が混み、かけてもつながらなかった。
1995年1月19日。阪神大震災から2日後、やっと西宮の自宅に辿り着いた私は、屋内の惨状を目の当たりにした。雨戸を閉め『すぐ帰るから』とヤンに話し掛け、母と妹の避難先、目の前にある母校、大社小学校へ向かった。3年2組はすぐに見つかった。フローリング仕様の明るくモダンな教室で、私が通った頃とは雲泥の差がある。母と妹は意外に元気で、私を見ると手を振った。『余震が続くし、ゲンタ君が、おばちゃん、ここに居ちゃ危ないと言ってくれたので思い切って避難しちゃった』。隣の坊やもそんなことを言う歳になったんだ。
『ヤンは教室まで連れて来れないし。無用心だから、可哀想だけど番をしてもらってるの』そう母は続けた。あの他人に無関心な平和主義者?が番犬になるか。ま、見た目は怖いからいいか。翌々日、叔父に頼み、家族と犬を京都向日市にある祖母の家に送り届けた。その後、私は埼玉に戻るつもりだった。
帰る前、会社の総務に言われていた見舞い金請求用の証拠写真を撮った。ふと思い付き、床に転がっていた例の柱時計を、壁へ斜めに立てかけた。割れたガラスで指を切らぬようにそっと針を動かす。5時17分、フラッシュが光った。報道カメラマンなら即首だな。その甲斐あってか、それとも全壊証明書が効いたのか。二ヵ月後、結構な金が口座に振り込まれていた。
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