まだ酷暑の続く9月上旬、中高母校のSNS欄に恩師が帰天されたという報告が入る。亡くなられたのは8月で既に葬儀は終わったとある。UPしていたのは30年も年下の後輩君で恩師が退任前に担任をした最後の学年だという。かなり恩師に思い入れがあるようで、10月には六甲カトリック教会で追悼ミサを開きたいと言っていた。
我々はこの恩師が最初に教え、担任となったもらった学年だった。世話人の後輩君に何回か連絡を取っている内に『ミサの中で恩師についての思い出話をして欲しい』と頼まれた。朝飯に何を食ったか忘れる歳になったが、昔のしょうも無いことは良く思い出せるワシ。任せなさい。取り敢えず、その思い出を文章にまとめてみる。
恩師のT先生は1967年の4月、我々が中学2年生になった春、大学を卒業されてすぐに着任された。そこから我々が卒業するまでずっと英語を教えてもらう。確か我々とは8~9つ違いで、恩師には悪いが教師というよりは兄貴という感じであった。
なかなかお洒落な方で、授業にはフレンチカフのワイシャツで来られ、髪型も教師にありがちなきっちりと7:3に分けたものではなくモミアゲは長めで分け目を入れず流した感じ。恐らく今でも通用するスタイルだったと思う。このスタイルと容貌が当時有名だった歌手のバーブ佐竹に似ていると言い出した奴がおり、その時から卒業した後もずっとバーブのニックネームで通っていた。
その歌手が消えてからは、後輩君たち恩師をダンディと呼んでいたと聞く。きっとT先生は持ち前のダンディさに拍車をかけたんだろうな。『スダレの満月』や『子作り誉れ』等、ロクな渾名を先生方に進呈しなかった我々より、後輩君たちは粋だった(笑)。
この恩師、卒業後の同窓会にはなかなか来てくれず、新任教師をイジリまくった元ワルガキ達がウザイのかと思っていたのだが、他の学年に誘われても出席率は悪かったそうだ。
なかんずく、T先生を誘った後輩世話人君は『お前らはまだ昔を懐かしむような歳じゃないだろう』と言われたそうだ。同窓会に参加しなかったのは恩師なりのダンディズムだったと判り、幾分気が楽になった。そしてある時、我々が昔を懐かしむような歳になった頃、T先生は同窓会に来られた。
恩師は昔以上?に若々しく、年の差を感じさせなかったという。あまつさえ、一人のドアホは同級生と勘違いし『顔は覚えてるんやけどなぁ。名前が出て来ん。悪い、お前誰やった?』と恩師に尋ね、周りから『アホ、T先生や!!』と総突っ込みを受けたという。その時は2次会迄付き合ってくれたそうだ。
もう同窓会ではお会い出来ないのが残念と10月8日のミサには元ワルガキが10人以上集り、T先生を見送った。まぁ我々もいい歳なんで、その内にむこうでお会い出来るだろう。T先生、我々のいない静かな内がチャンスです。ゆっくりお休み下さい。