小学5・6年生の夏の暑い日でした。
家に、お坊さんみたいな格好のおっさんがやってきました。
体格がよくて丸ハゲ頭と、黒い袈裟をきて大きな玉の数珠を首にかけた、小田無道そっくりな人。
「はよ、こっちにおいで。」お母さんがよそ行きの声で私を呼びました。
よばれたのが嬉しくて、一階のリビングに入ったら大きなお坊さんがいて、びっくりした。
そのお坊さんは私の手をつかんで目をつむりながら、何かゴニョゴニョ言っている。
少ししたら、ぶるぶる震えだすおっさん。
「強い、強い霊がいるぞ~!」大声で叫ぶおっさん( ̄∀ ̄)。
『なんでやねん!』心の中でつぶやく私。
お母さんがおっさんに「お願いします、なんとかして助けて下さい。」って必死な顔して頼んでいる。
私の先祖の武士が、ある娘(○よって名前だそうだ)の、手を切って殺したせいで子孫の私が呪われているらしい。
そんなのおかしい。って思った。私は生きてるのに、毎日、叩かれながら頑張ってるのに、先祖の呪いなんて信じられない。
昼間のテレビで『あなたの知らない世界』をよく見てる。あれはこわい。こわいけど、私の手が霊に呪われてるなんてありえないわ。
誰かが止めさせてくれると思った。
けど、おばあちゃんもお父さんも誰も止めない。
○○の手が治るならと、おっさんの話しを一生懸命に聞いてる。
後で分かったことですが、おっさんは私の同級生のお母さんから紹介されたそうだ。
次の日から、霊の浄化が始まった。電話台の上におっさんが書いた色紙を飾って、1日一回『なむみょうほうれんげきょう~』と手を合わせて拝む。朝、コップに水を入れて色紙にお供えする。色紙には『1日○○』って書いてて下の字は難しくて読めない。
18金のネックレスも買って、ピンクのお守り袋に入れて持たされた。おばあちゃんや親戚の叔母さんも買って首につけていました。
私は小児喘息を持っていてのどが弱かったから、供えたお水をコップ一杯飲むのがとても辛くて、それでまたお母さんに怒られました。
泣きながら飲んでたな。
その年の真冬に、滝に打たれに行きました。夜中に白いワゴン車でどんどん山奥に入っていきます。
白い着物に着替えさせられて、寒くてガタガタ震えだす体。
私は寒いから嫌だってお母さんに言いました。
書き忘れてだけど、生まれてから私は体が弱くて、小児喘息で病院に入退院を繰り返していました。何度も肺炎や髄膜炎で死にかけています。少しの事で喘息の発作が出て、よく病院に救急で行っていました。
だから、また発作が出て苦しくなるのがこわかった。
だけど、お母さんはほっぺたを平手打ちして「また、言うこと聞かないんか!」ってにらまれた。
手を振り上げて叩こうとするからできるだけ痛くないように、歯を食いしばって目をつぶる。体が動いたら余計に痛い。だから、じっとして体を固くしたほうが良い。お母さんはグーで私を殴らない。わざと平手打ちなのはお母さんの優しさなんだと、本気で思っていました。
また叩かれるのが怖くて、泣きながら車から降りました。
2・3メートル先に滝つぼが見える。
水はひざくらいあって、すごい冷たさで足が痛い。
おそるおそる、滝に打たれに歩いていく。
しんどかったらしんどいほど、冷静に状況を見ている自分がいます。これは私に起こってる事じゃないから、大丈夫!って自分を慰めていました。
滝に打たれたら、ドド~ってすごい勢いと水の冷たさで体がしびれる。
息が苦しくなって、ヒューヒュー、ぜえぜえしてきだす。
発作が出てきて、息ができない。
胸に何かが詰まっていて、咳をしても全然取れない。
吸入器はカバンの中だから、早く取りに行かないと死んじゃうよ。
だけど、戻ったらお母さんに怒られる。
そんな事がぐるぐる頭の中で回る。
もう叩かれても良いから、必死に歩いて車の前まで行く。
‥今まで何回か死にそうになりました。その度に火事場の馬鹿力と言うか、必死になって自分で切りぬけてこれている。
スローモーションで覚えている記憶。
かじかんでますます動かない左手を、必死になって動かして、カバンの吸入器を探す。
口で吸入器の蓋を外してくわえる。
何回も吸入器を押すのを失敗しながら、なんとか薬を吸入する。
ぐたって横になって地面で寝ました。
しばらくして、治まってきて起き上がるとお母さんが笑っている。
『お前、何してるの?いつも大げさやねんから、お母さんが悪いみたいやろ。ほら、先生(おっさん)に謝りなさい。』
いつもこうだ。私が大げさにするから悪いと怒られる。
今、死にかけたのになんで気づかないのやろ。
私が悪いの?
おっさんを見たら、なんか焦っているみたいで、私を見ない。
なんでか、おっさんが私にういろうを何本かくれました。
帰りの車の中で、そのういろうを食べた。これから入院するやろうから、食べて体力つけないとって思って、がんばって食べた。
翌日から、病院に入院しました。お母さんは「この子がいつも服を着ないでいるからすぐ入院して困っています。」言っていました。
なんでいつも私のせいにするの。でも、おばあちゃんや親戚の叔母さんに言っても信じてもらえない。入院したら、お母さんに叩かれないから嬉しかったものです。
しばらくして、中学2年の時、お母さんが家出をしました。夜はパチンコに言って、ずっと家に帰って来ないのが何年か続いていたから、驚きませんでした。
お父さんが、怒り狂って叫んでいた。パチンコ屋の店員の19才の男と逃げたらしい。住んでいた所は、バスも通っていないど田舎だったから、あっという間に噂は広がりました。
お父さんは、仕事にもいかず、お酒ばかり飲むようになった。だけど、私はほっとしていました。泣かないでいい毎日は安心でした。
お母さんは、すごくおしゃれな人でした。
いつも綺麗な服を着て、髪の毛をセットして化粧してた。
私も綺麗な服、欲しかったな。
着やすい服ばっかでシャッツとか短パンが多かったと思う。
小さい頃を思いだそうとすると、頭にもやもやした霧がかかってなかなか思いだせないのです。。数少ない写真をみて、ゆっくり思いだして書いています。
最近は、診療内科でPTSDにきく漢方を処方してもらっているから、思いだして泣いたりする事がなくなってきたよ。
道でお母さんに似てる人に会うと、思いだして体がすくんで逃げてしまう。
あの頃の辛い気持ちは覚えている。のどにボールがつかえてる感じがしてうまく喋れない。1日中、家では話をしなかったな。何か言うと、すぐに叩かれたから怖くて黙ってた。お母さん、私の言うことを聞いて!って思って話そうとしたら叩かれる、その繰り返しで、自分が空気になったみたいに感じた。
怒られないようにびくびくして、笑顔を身につけました。
小学校5.6年の時に自殺しようとしました。
学校でクラスのリーダーみたいな子に悪口を言われた。
もうどこにも居場所はないし、私が死んでも誰も悲しまない、生きていてもしょうがないと思った。
学校の一番上の階のベランダに行きました。
高くてこわかったけど、このまま生きていてもしょうがないから、早く楽になりたかった。
泣きながら、お母さん、お父さん、ごめんなさい。私は弱い子だから、たえれません。私が死んだら少しは悲しんで欲しいな。お母さんは泣き真似が上手いから、みんなの前でいっぱい泣くだろうな。
飛び降りようとしたとき、後ろから誰かが名前を呼びました。
同級生の高橋くん‥
学校でおちょくられて男子トイレに連れ込まれるけど、必死で逃げてた。普通に接してくれる男子。『やめろ!』って、羽交い締めにされてベランダのへりから下に落ちた。
私は「お願いやから死なせて!」って
ふりほどこうとしたけど全然動けない。
先生が気づいて走ってきた。
泣きながら、「もう死なせてほしい!」ってつぶやいた。
大阪の職訓校に入学してびっくりしたのは、こんなにたくさん私と同じ身体に障害を持っている人がいるんだっていうこと。
私の障害の話をすると、私は母親のお腹にいる8ヶ月の時に、切迫流産になり母子ともに危ない状態になったそうだ。
私はもう助からないと母体を助けようとして、私の手を引っ張ったか、ヘソのおが首に巻きついたかして(親に聞いてもばらばらな事言って、分からないと話をしたがらないから詳しくは分からないまま)で、首の骨が神経を圧迫して両手に麻痺がある。
障害名は両上肢分娩麻痺です。
死んだと思って寝かされたままの私を、親戚の叔父さんがお医者さんに、何度も「もう一回だけ処置してやってくれ!」と言って、そしたら息を吹き返したそうです。
体重は800gしかなくて、手のひらにちょこんと乗っていた私。
体は弱く、何度も生死をさまよって、小児喘息でずっと入退院を繰り返してました。
両親は私を普通のこどもにさせようとしました。
保育所の入所に優先的にできるからと手帳を取ったのでした。
色んなお医者さんに見せて、治らないと言われたと言ってたな。
保育所からずっと普通の学校に通っていて、それは本当に大変でした。
学校で着替えとかできないから、何するのも遅くていつもひとりだった。
パンツを上げる力と下ろす力がなくて、お漏らしばかりでした。いつもトイレの前で『なんでできないの!』って、お母さんに叩かれました。「ごめんなさい!」って泣きながら一生懸命パンツをあげようとするけどできなくて。できるまで動くな!ってほっとかれて、隣の部屋の家族の笑い声をずっと泣きながら聞いてた。
妹と弟に汚いとか変って、よくばかにされたな。
お父さんは関わるのを避けてたみたい
でも、椅子で殴られ続けた時はかばってくれたな。
27才の時に周りの人のアドバイスで、自分で障害を調べてみて、重度の障害だったのが分かりました。
分娩マヒという障害名はこどもにつけることが多くて、リハビリをしていくとだんだん治っていくらしいです。
私は脳性麻痺に近いのではと、認定医師に聞きました。
小学校では、家に帰るのがいやで、ひとりぼっちだったけど学校に行きました。叩かれないし、給食がでるから良かった。ばかにされないし、泣いても誰も叩かないもの。
通信簿に先生が『制服がいつも汚れています。洗濯してあげて下さい。』って書いてくれて、すごく嬉しかったのを覚えています。
お母さんが悪く思われたくなくて、自分で制服を洗いました。ご飯を食べるのが遅くて、ご飯を下げられてたからいつもお腹が空いてた。
お風呂もなかなか入れなくて、臭くて自分が嫌でした。
臭いのがばれないように、人が近づいてきたら離れました。
こんなに臭くて手が悪くて、なにもできない私だから、お母さんは私を嫌いなんだ。お母さんが好きになってくれるように、頑張ろう!
いつだったか、パンツを壁を使ってがんばって履けた時に、お母さんに言ったら『遅い!』って叩かれて、絶望して息ができなかった。
私が覚えている一番古い記憶は、プールの記憶。3歳くらいだと思う。
お母さん、お父さん、妹と私の家族4人で波のあるプールに遊びにきた。
お父さんと妹はどこかに行っていて、お母さんと私の二人きりだった。
お母さんはいつも無表情で、笑った顔をみた事がなかった。妹にはよく笑っていて、すごく羨ましかったな。お母さんは私にすごく厳しくて、私はいつも緊張してた。息がしづらかった。
お母さんの横で座っていた私。プールは海辺の砂浜みたいな造りで、だんだんと深くなっている。
大きな波が打ち寄せてきて、ふっと体が浮いた。
次の瞬間、ゴボッと水に沈んで音が聞こえない。
目の前にプールのなだらかな壁が見える。壁には細かい滑り止めのギザギザがいっぱいだ。
私は慌ててギザギザに爪をたてようとする。けど私は両手が不自由(右手はいつもグーで左手は少し指が動く。歩く時に手を動かせなくてバランスがとれず、よく転んで頭をけがしてました)でなかなかギザギザを掴めない。
お母さんの足が見える。お母さん助けて!私溺れてるの!お母さん、気づいて!お願い!だけど全然動かないお母さん。必死でもがいてもがいてみる。息ができないよ、水がのどからいっぱい入ってくる。苦しいよ、助けて!
上を向いたら誰かが私を見てる。お母さんだ!!お母さん、助けて!溺れてるの!私、手が悪いから泳げないの。助けて!‥だけど、お母さんは全然動かない。じっ~と見てる。時々見る冷たい目だ。
すごく冷たくてこわい目。お母さん、どうしたの?
私なにかしたかな?私、また悪い事したの?溺れながら色んなことが頭に浮かぶ。
お母さんは私が死んだ方がいいの?手が悪いからいやなんだ。いつも汚いもの見るみたいな目だった。‥いろんな事を考えてたら、苦しいのがいっぱいになってる。周りが暗くなる。もうだめ!!私、死んじゃうのかな!お願い!助けて~!!
ふっと体が波に乗って、押し出されるみたいに壁に手が当たった。今だ!!
ギザギザを何回も必死で掴む。すべって上手くできない、2回、3回、4回、つかめた!!指に力をこめて体を引き寄せる。上にずるずる、ひじと体ではいあがっていく。水から抜け出せた!息ができる。助かった!!上手く吸えなくて、ゲホゲホむせる。
ふと見たら、お母さんが見てる。なんでそんな顔して見るの?悔しそうな残念そうな顔で見てる。やめて、お母さん。‥怖くておぞましい、これが一番最初の記憶でした。