父親が単身赴任。
母親は、鬱というのか、パニック症候群なのか、なんらかの心身症を患っており、家事など、食事の支度もせずに、自室に引きこもり寝込んでいる。
そんな物語の主人公の少女遊は14歳。
幼い弟がいる。
〈育児の放棄〉をしている母親。
この14歳の少女の、もろ背中に、〈家庭〉という場所が、のしかかっているのだ。
遊をめぐる環境は決して14歳の少女にとって、安寧なものではない。
しかし遊は、そのシビアな環境にめげることがない。
なんとも強気なのだ。
それが、私には好ましい。
思春期の少女が、己の於かれている状況に嫌気がさして、いじけてしまうことは簡単だ。
自己がおかれている状況を、どういうふうに理解するかは、その人間次第だ。
自己を哀れむか、いじけるか、自暴自棄になるか、
己がなにを為せるか試行錯誤しつつも、前へ進むのか。
この違いは、どこから生じるのだろうか。
『15歳、ぬけがら』の15歳の少女麻美と、『明日のひこうき雲』の14歳の少女遊の差違は、なんだろうと、考えてしまう。
麻美は、あまりにも育っておらず、読者としては到底15歳とは思えず、11,12歳かと思ってしまうほどだった。
ところで、『明日のひこうき雲』の主人公遊は、自己が於かれている出口が見えない悲惨な状況にあっても、なんと、ちらっと見かけた少年に一目惚れをするのだ。
いいなぁ。
生きているって、そんなことなんだと思う。
人間の生来の生きる力を、児童文学作家は、語らなければならないと思う。
いいことばっかり、あるわけのない、人生。
それでも、14歳の少女は、生きていける。
どんな絶望にあっても、希望を失うことなく。
八束澄子の描く14歳の少女遊は、読者である私の前にイキイキと立ち現れる。
そして、遊以外の、物語に描かれる一人一人が、まさに、紙面の中で、確実に心臓の鼓動を感じ、息をしている人間なのだ。
人を描くとは、こういうことをいうのだと、実感した作品でもあった。
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