ケセランパサラン読書記 ーそして私の日々ー

◆ 『明日のひこうき雲』 八束澄子 著 ポプラ社

                    


 父親が単身赴任。
 母親は、鬱というのか、パニック症候群なのか、なんらかの心身症を患っており、家事など、食事の支度もせずに、自室に引きこもり寝込んでいる。

 そんな物語の主人公の少女遊は14歳。
 幼い弟がいる。

 〈育児の放棄〉をしている母親。
 

 この14歳の少女の、もろ背中に、〈家庭〉という場所が、のしかかっているのだ。


 遊をめぐる環境は決して14歳の少女にとって、安寧なものではない。

 しかし遊は、そのシビアな環境にめげることがない。
 なんとも強気なのだ。


 それが、私には好ましい。

 思春期の少女が、己の於かれている状況に嫌気がさして、いじけてしまうことは簡単だ。

 自己がおかれている状況を、どういうふうに理解するかは、その人間次第だ。
 自己を哀れむか、いじけるか、自暴自棄になるか、
 己がなにを為せるか試行錯誤しつつも、前へ進むのか。

 この違いは、どこから生じるのだろうか。

 『15歳、ぬけがら』の15歳の少女麻美と、『明日のひこうき雲』の14歳の少女遊の差違は、なんだろうと、考えてしまう。

 
 麻美は、あまりにも育っておらず、読者としては到底15歳とは思えず、11,12歳かと思ってしまうほどだった。
 



 ところで、『明日のひこうき雲』の主人公遊は、自己が於かれている出口が見えない悲惨な状況にあっても、なんと、ちらっと見かけた少年に一目惚れをするのだ。

 いいなぁ。
 
 生きているって、そんなことなんだと思う。




 人間の生来の生きる力を、児童文学作家は、語らなければならないと思う。


 いいことばっかり、あるわけのない、人生。


 それでも、14歳の少女は、生きていける。


 どんな絶望にあっても、希望を失うことなく。





 八束澄子の描く14歳の少女遊は、読者である私の前にイキイキと立ち現れる。
 そして、遊以外の、物語に描かれる一人一人が、まさに、紙面の中で、確実に心臓の鼓動を感じ、息をしている人間なのだ。

 人を描くとは、こういうことをいうのだと、実感した作品でもあった。



 

 


 
 

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