以前、子どもの本の関係の機関誌に『ベルリン1919』『ベルリン1933』『ベルリン1945』(クラウス・コルドン著 酒寄進一訳 岩波書店)、この三部作の書評を書いたことがある。
今日、評論を書くある人から、私の上記の文章から引用したいという連絡が来た。
引用個所には、ページ、行を明記し私の名前、誌名も記載するという。
勿論、私は「どうぞ、どうぞ」である。
このような連絡を頂くことは、珍しいけれど、でも引用した場合は、或いは参考資料として読んだ場合、その出典書籍、著者名、出版社を明記することは、物書きの常識であり、大事な倫理である。
ですが、これができない人が存外いる。
数年前、私が『季節風』という冊子に書いた評論から、商業出版された書籍に数カ所を無断で引用されたことあがる。
その無断で引用された部分は、私の評論の骨格となる文章だった。
友人だったこともあり、この件のショックは大きかった。
あたかも自分が、調べたかのように書いてしまう倫理観のなさに驚き、正直情けなかった。
引用した人に確認をすると、無断引用を認めたけれど、謝罪はなかった。
謝罪は、自分の立場がなくなるということが理由だった。
それほど、自分の立場が大事なら、人が書いた文章を、自分が調べたようにして書くなと、いうことである。
しかも、いけないことをしたという自覚がないということだろう。
彼女は、現在もあちらこちらで、講演をしたり、文章を書いている。
盗作、無断引用をしないということは、物書きにとって第一義の倫理だろう。
私は、怠け者だし、悪口は言うし、嘘だってつくし、善人とは自信を以て言えるような人間じゃないけれど、人の書いた文章は盗らない、決して盗らない。
今日の『ベルリン1919』シリーズの私の文章への引用したいという連絡から、厭なことを思い出してしまった。
私は許そうとも、過ぎたこととも、思っていないようだ。
人を許すということは、とても難しい。