あらためて、『小公女』について。
『小公女』について、アカデミックな研究論文がある。今は、インターネットで検索すると、研究者の論文、紀要、学位論文など、諸々読むことができるので、ある意味、ありがたい状況になっている。
宗意和代という人が書いた法政大学審査学位論文 <翻訳の可能性―『小公女』からロマンス小説へ―> これは面白く読んだ。
宗意和代の、アカデミックな研究論文は、その視点には、好奇心がそそられる。
その探究に、大いに興味が湧く。
なるほとど思い、書評を書く者として学ぶこともいっぱいあった。
しかし、思う。
学術論文は、読み手の積極的な目的意識があって読まれる著作である。だからそのセンテンスが極めて読みにくかろうが、それは問題外である。書かれている内容があくまでも問題なのだ。まずは、一般の読者を想定していない。
そこが、アカデミックな論文と、いわゆる「評論」との差違である。
評論は、沢山の人に読まれてナンボのものであって、取り上げた本を、読んでみたいと思ってもらって、評論を書いた意味があるというものである。
どんな立派な論も、読まれなくては、ただの芥に過ぎない。
この違いについて、評論の書き手はしっかりと認識していなけれならない。せっかく書き手が気付いた良いことを書いても、一般の読者が、手に取って読まなければ、なんの意味があるだろう。書いたといういう自己満足でしかない。
評論は、後藤竜二は、物語のように読まれるものでなければならないと、いうのが持論であった。
若干、話しがずれた。今は、『小公女』である。
文学を、どんな視点から読むかは、あくまでも読み手の自由である。
『小公女』は「階級物語」であるという解釈がある。たしかにセーラは結局のところ、元の上流階級へ復帰しベッキーはきれいな服を着せられてはいるがメイドのままで、この物語は大団円となった。バーネットの生きた大英帝国は、植民地収奪と身分秩序の上に繁栄を築いたわけだ。
バーネットにとって、階級問題はあたりまえの既成の常識の枠組みに於ける事実であって、なんら社会的な問題意識を孕んではいなかった。それはバーネット個人の問題であって、『小公女』を読んで、心打たれる読者とは、また異なる問題である。
そして、日本の少女たちもまた、社会科学的な階級問題意識とは、無縁なところで『小公女』に、感動したのだった。そこが、面白いではないか。
そこに、徹底的に注視し、原典を忠実に読み取らんとし、翻訳をしたのが高楼方子である。
高楼方子は、原作を読み込み、ここまでも描くかというほどに、バーネットを描き、主人公セーラを、とことん、描いた。
まことに、それはそれは、シビアな仕上がりになっている。
文学とは、とどのつまり、行き着くところまで行き着いて、人を描くことだ、と私は思っている。
高楼方子の仕事に感嘆する。
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