『ああ無情』という物語を、子どもの時に読んだ。
私が読んだのは、講談社の「少年少女世界文学全集」だ。
昭和三十年代中頃から、子ども向けの文学全集は大流行だった。
思えば、現代の児童書の発行部数状況から考えると、この文学全集は、桁違いな数の発行数で、当時の親たちの収入からすると、考えられないほどの普及率だった。
今でも実家に全作、揃ってあるはずだ。
ちょっと懐かしくなり、検索してみたら画像を見つけることができた。
そうそう、これです。
もう一度、一冊一冊、読み返してみたくなる。
それで、『ああ無情』というのは、あれはいったいなんだったのだろうと、今ごろになって考える。
私の世代の人たちは、ヴィクトル・ユゴーと言ったら『ああ無情』。
『ああ無情』と言ったら、ジャン・バルジャンが銀の燭台を盗んだというお話しに決まっている。
銀の燭台のプロットは『レ・ミゼラブル』の、ほんの、わずかな一部分なのである。
なんと、当時は、道徳の教材としても使われたという。
銀の燭台を盗んだジャン・バルジャンは、司祭の、差し上げたものだという言葉で、助けられる。
そしてこのことがきっかけでジャン・バルジャンは、改心するという展開だ。
フランス文学の根本は〈愛〉なんだと、つくづく思うのだが、おおよそ半世紀もの間、『ああ無情』が『レ・ミゼラブル』と同一なものだと思い込んでいた人たちが、この日本には沢山いたにちがいない。
私も、その沢山いた中の、一人である。
映画『レ・ミゼラブル』を観たときに、私は隣に座っている夫に、「これって『ああ無情』だよね?」と確認してしまったほどだ。
まさに、ああ無情!なはなしである。
天国のユゴーは、驚きのあまり眼を剥いて、怒り心頭かも知れない。
私が子ども時代に読んだ多くの世界文学は、近年あらためて完訳版が、どんどん出版されている。
完訳版を読むことは、びっくり!に出会うかも知れないが、それはそれで楽しみなものである。
それにつけても、あくまでもビルドゥングスロマン自己成長に拘るドイツ文学と、飽くなきほどに愛に拘るフランス文学の違いには興味が湧く。
(Victor Hugo Woonde in dit huis in 1852) → 目を皿にして、写し取りました!(^^)/
("ヴィクトル・ユゴーは1852年にこの家に住んだ"と、柱のプレートに記されている。今はレース屋さん。ブリュッセルのグランプラス)
<余談>
ヴィクトル・ユゴーは、社会派作家として知られ、19世紀末期には社会的平等、民主主義と死刑廃止のために活動し、そのため、反政府主義者としてパリを追放され、ブリュッセルに亡命をした。
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