ケセランパサラン読書記 ーそして私の日々ー

◆ オゥマ おばあちゃん

 オランダ語でオゥマ (Oma) は、おばあちゃん。

 1985年、10月、生後2ヶ月の息子とともに、夫がいるオランダのライデンへと私は向かった。

 その私たち家族に、オランダでの日々の暮らし方を、誠心誠意、教えてくれたのが Van Din ご夫妻。
 
 夫は、平日も土日の週末も家にいることはなく研究に没頭しており、このご夫妻の存在なくして、乳飲み子を抱えた私のオランダでの生活は成り立たなかったといえる。
 

 オランダに着いた当初は、私にはまったく理解不能で耳に雑音としか聞こえてこないオランダ語のなかで、Van Din ご夫妻は、私にありとあらゆることを手取り足取りレクチャーしてくれ、そのお陰で、やがてオランダ語も耳に馴染み、聞こえる音をを理解し、片言を話せるようになり、とても楽しく充実した日々を暮らせた。



 2009年の春のこと。
 ご主人が亡くなったとの報があり、私たち家族3人はそれぞれの住む場所から成田に集合し、弔問の旅、幾年月のオランダへ向かった。

 Mrs.Van Din は、ご主人 Jan の遺灰(オランでではお骨は粉末状)と遺影を安置している部屋で、「私たち夫婦は無宗教です。でも夫に心を尽くして祈りたいのです。どうすることがいいのですか」と、夫に問うた。
 夫は、「自らの心のままに、形にはこだわらずともいいのではありませんか」と言うと、Mrs.Van Din は、「安心しました。」とひと言、そう言った。
 


 
 日本に帰国して十数年は、海外旅行などする余裕は経済的にも心情的にも有り得ない状況だったが、ようやくそれが可能になり、それから私は年に1回か2回、Mrs.Van Din を訪ねた。


 私が一人で渡蘭したときは、Mrs.Van Din の家に宿泊し、家事一切のお手伝いをしたものだった。
 Mrs.Van Din のもっともクラッシックなオランダ婦人のあるべき姿である徹底した潔癖駅というかきれい好きは、私にとって、それはそれは興味津々、どこをどう磨くかのシステムを極めて細部にわたり、しかも具体的に習得するとても良い経験となった。

 Mrs.Van Din は、午前中と午後と必ずお茶の時間を持ち、その時は、コーヒーとちょっとしたお菓子を頂くのだが、なにがなんでもそれを必ず行う厳格さが、やっぱり私には面白かった。



 昨年、お伺いしたおり、Mrs.Van Din は95歳になったと言い、弁護士に遺言を託したと言って、その内容もお話ししてくれた。
 行政は施設に入るよう言うのだけれど、建築家だったご主人 Jan が建て、この家で亡くなった、その家にいたいのだと言っていた。

 そして Mrs.Van Din は、「あなたの夫の言葉を今もずっと忘れません。私は毎朝、Jan の遺灰に向き合い、彼と語りあっているのです」と言った。

 


 8月に電話をした。
 だれも出ない。

 いやな予感がした。

 9月に入ってすぐに電話をした。
 だれも出ない。
 
 また、電話をした。
 また、電話をした。
 また、電話をした。


 そして、とうとう、この電話は使われていないというアナウンス。
 何度、かけても、この電話はつかわれていないというアナウンスが繰り返される。



 私は、覚悟していたのだと、言い聞かせた。
 それでも、もしかしたら、電話にでるかもしれないと思って、また、かけてしまう。


 私が使わせて頂いていた部屋の鏡台に置かれていた、まるでマリーアントワネットが使っていたようなヘアブラシ、あのヘアブラシは、Mrs.Van Din 、オゥマの嫁入り道具だったという。



 オゥマは、オランダ語でおばあちゃん。
 息子も私も夫も、Mrs.Van Din をオゥマ、オゥマ、と、いつも呼んでいた。
 
 オゥマ。







 

 
 
 
 
 

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