daiozen (大王膳)

強くあらねばなりませぬ… 護るためにはどうしても!

かわぼりのむれをるところせといもと

2014年09月06日 | 気紛れ猫にゃん
ひらがな俳句に最近はなってきている私です。
ひらがな17文字だけで理解できる俳句ならそれに越したことはない。子供もよみやすい平かなで滑らかに綴る短詩刑が好ましく思えるのは齢のせいかも知れませんけれど、わたし的にはこれで拘りを持っているのです。

自由律俳句が好きで始めた私の筈なのに近ごろ自由律が不自由律に想えるのはどうしてだろうか。不自由に感じる初めは17文字という制約にあるのは明らかで、そして季節感を表さなければならないという二つ目の制約、上五・中七・下五という制約も煩わしく想われて、「詩は心の発露、自由に詠んでいい」という想いに至るのは当然でしょう。

一行詩とも言うべき自由律は正岡子規の門下に始まっていて、それは明治維新の混乱期のなか西洋文化が音たてて日本へ乱入した観さえ私が持つのは「散切り頭を叩いてみれば文明開化の音がする」という流行り唄のせいかも知れない。温室育ちの軟弱野菜を風に当てれば、それは当然風邪ひいて萎びてしまって商品にならないが、日本人は明治の当初から風邪ひきやすい体質に育っていたのでしょう。

厳しく縛られていたモノからいきなり解放されたら、そりゃあ犬だって猫だって飛んで逃げていきますからそれは人間だって棚ぼたの自由に乱舞するのは当然で、芭蕉に始まった俳諧だけが文明開化の音から逃れられると考えるほうが変な訳です。俳句の幸運は正岡子規という稀代の天才を得たところにあると考えたい私であり、彼は門下に対して有季・定型を強制した訳ではなさそうで、お陰で自由律が一気に広まったと想えてならない。


芭蕉は「こがねを打ちのべたる」と述べるがその条件を満たす俳句が今の私の指標になっている。




かわぼり:蝙蝠。川堀?
むれ:群れ。蒸れ?

慥かなる甲冑ばかり鷹の爪

2014年09月06日 | 気紛れ猫にゃん
俳句は「見立て」の文学といえるようです。
医師が患者の容体から病名をつけるのを一般的に見立てというが、文化・芸術の世界での見立てはそれとは少し異なる。日本庭園には砂や小石を川や山に見立てたものがあり、落語だと扇子や手ぬぐいをキセルや手紙に見立てる。

見立てることで心・想いをほかの人に容易に伝えることが出来るが、俳句のばあいも見立ては重要な要素であり、とはいっても見立てが稚拙であれば何を言いたいか伝わらなかったり、文学性が認められない陳腐な作とみなされることになる。17文字で心を伝える文学・俳句の難しさは即・見立ての難しさなのです。

句をいかように詠むのも詠み人の勝手で、しかし句意が伝わらなければ誰も気づかず振向かなくて、そんなのは駄作というしかないが、これが巨匠が描いた絵画というだけで途方もない高額で取引されているように、文芸は人気が価値判断のバロメーターになっているのは確かなようです。俳句の世界もそれは同じですからじっさい権威づけが重視されることにもなるのでしょう。


近ごろの激辛ブームで従来の唐辛子に飽き足らず世界中に珍種を求める傾向が強まっているようですが、辛さ世界一と言われるハバネロをさらに上回る辛さの品種が出回っているらしい。私はハバネロの辛さについては知らないが従来品よりも肉厚で丸型に近くなっている。肉厚ということは水分が抜けづらくカビが生えやすく腐りやすいから保存に失敗した人も大勢いるとのこと。そう考えて日本産の優秀さに気づいたりしている私なのです。

唐辛子は料理に使えば味が引き締まって美味しいが、この辛さが虫除けにも利用されていて幼いころの記憶として米びつのなかの米に唐辛子が乗っかっていたのをまざまざしく想い出します。乾燥し色あせてもシャンとして役目をはたしていた唐辛子、薄皮いちまいの中に種が保護されていて辛さばかりでなく見た目のシッカリ感も同時に私の目に焼き付いたようです。



慥(たし)か:「確か」の同義語。

裏見草踏めば奏づるオルフェウス

2014年09月05日 | 気紛れ猫にゃん
オルフェウスの画像です。

ギリシャ神話・オルフェウスをモチーフにした絵画や音楽は人気ですね。
身体をバラバラに引き裂かれて川に放り込まれても歌い続けたオルフェ、
流れ着いた島の人々は彼を悼み弔って以来、島は文化が栄えたという。
その姿が私には踏付けにされても大地を席巻する葛かずらに被ります。

裏見草:葛の異名



今放映中の韓国ドラマ『サメ~愛の黙示録~』にシャガールの絵画
「オルフェウス」が出てました。どう展開するのか気がかりです。