ひらがな俳句に最近はなってきている私です。
ひらがな17文字だけで理解できる俳句ならそれに越したことはない。子供もよみやすい平かなで滑らかに綴る短詩刑が好ましく思えるのは齢のせいかも知れませんけれど、わたし的にはこれで拘りを持っているのです。
自由律俳句が好きで始めた私の筈なのに近ごろ自由律が不自由律に想えるのはどうしてだろうか。不自由に感じる初めは17文字という制約にあるのは明らかで、そして季節感を表さなければならないという二つ目の制約、上五・中七・下五という制約も煩わしく想われて、「詩は心の発露、自由に詠んでいい」という想いに至るのは当然でしょう。
一行詩とも言うべき自由律は正岡子規の門下に始まっていて、それは明治維新の混乱期のなか西洋文化が音たてて日本へ乱入した観さえ私が持つのは「散切り頭を叩いてみれば文明開化の音がする」という流行り唄のせいかも知れない。温室育ちの軟弱野菜を風に当てれば、それは当然風邪ひいて萎びてしまって商品にならないが、日本人は明治の当初から風邪ひきやすい体質に育っていたのでしょう。
厳しく縛られていたモノからいきなり解放されたら、そりゃあ犬だって猫だって飛んで逃げていきますからそれは人間だって棚ぼたの自由に乱舞するのは当然で、芭蕉に始まった俳諧だけが文明開化の音から逃れられると考えるほうが変な訳です。俳句の幸運は正岡子規という稀代の天才を得たところにあると考えたい私であり、彼は門下に対して有季・定型を強制した訳ではなさそうで、お陰で自由律が一気に広まったと想えてならない。
芭蕉は「こがねを打ちのべたる」と述べるがその条件を満たす俳句が今の私の指標になっている。
かわぼり:蝙蝠。川堀?
むれ:群れ。蒸れ?