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daiozen (大王膳)

強くあらねばなりませぬ… 護るためにはどうしても!

俳句を比較する意味

2014年10月02日 | (転載・記事)  総 合

図3の句、漢字は一字「かれえだにからすのとまりけり秋のくれ」
うらぶれた感じで、一羽の烏が枝にとまって背を丸めているのです。
晩秋の風に木の葉は全て吹き飛ばされて、目ぼしい食べ物も少ない。

烏は安全な高枝にとまったまま、じっとしていて動こうともしない。
それにしても烏は何を考えているのでしょうか、芭蕉は気懸りです。
人生の何たるかを呻吟しておいでの哲学者クロー女史様でしょうか。

ただ単に、旦那の稼ぎを待ち侘びている奥さまの烏なのでしょうか。
うちの宿六、ご馳走を持って帰らなきゃ、もう家に入れてあげない。
枝には柿の実一つ残っているでなし、もうやってらんないでしょう。

晩秋ともなれば巣に温かい寝藁も欲しいのに、ほんとに厭になるわ。
樹の下を美味しそうな仔猫でも通らないかしら、お腹空いちゃった。
そんなこんなを考えながら、旦那の帰りを待っている烏でしょうか。

烏の目線を追ってみたり、尾羽の乱れを観察したりと、忙しい芭蕉。
これは掛け軸でしょうか。芭蕉の花押まで行儀よく正座して見える。
正に、図1,図2,図3、其々の絵を計算し・詠み・書いたのです。

これら三点の図柄を並べて観るのでなければ違いは判りにくいかも。
長谷川櫂氏ならこそ、私たちに判るように写真を載せてくださった。
そう考えて、私は長谷川櫂氏の功績が有り難くて、感謝するのです。

描き詠み書いた俳聖

2014年10月02日 | (転載・記事)  総 合
図2は、短冊に芭蕉の自筆の絵が描かれていて、俳句も自筆らしい。
これも難しい書体で書かれていますけど、長谷川氏の援けが心強い。
この短冊の句は「枯朶にからすのとまりけり秋の暮」なんですって。

それで短冊の文字をもう一度丹念に振り返って観てみることにした。
「枯枝」でなく「枯朶」になっているのは、どういう訳でしょうか。
図1では、見上げるような高い樹上の「枝」に烏が止っていました。

図2の烏は、幹から伸ばした細いほそい枝の付け根にとまっている。
即ち、この「枯朶」は細い樹木で、地面の近くの「朶」って事です。
そしてこの場景は晩秋と云うより、或る秋の日の夕暮れ時でしょう。

ここで「枯朶」と「秋の暮」は目立ちますし「里」も目立っている。
とまりの「り」を「里」と丁寧に目立つように書いてあるようです。
即ち、この句を詠んだ場所は山奥でなく「村里」「山里」のように思う。

そして烏は地面をしっかり見て、何かを注視しているように思える。
警戒心の強い烏が村里の低木にとまって、巣作りの材料集めかしら。
仔猫か、仔犬か、雛か、何か獲物になる小動物の死骸かも知れない。

烏のそんな様子に惹かれた芭蕉の野次馬根性が今に伝ってくる一句。
芭蕉は絵の一筆、字の一画にも神経を漲らせて描き・詠み・書いた。
この短冊の烏から緊張感が伝わってくるのは生活する烏だからです。

絵になっている俳句

2014年10月02日 | (転載・記事)  総 合

それでは「古池に蛙は飛びこんだか」中身に取掛りたいと思います。

著には芭蕉の句・芭蕉の弟子の句等が各所に散りばめられています。
これは芭蕉在世の感覚を偲び・近づく手掛りに欠かせないでしょう。
本の巻頭、初めに図1、図2、図3と芭蕉の句が紹介されています。

図1、烏が7羽枯木に止まり、20羽枯木の上を飛んでいるみたい。
そして、芭蕉らしき人物が離れたところから烏のほうを眺めている。
右端に芭蕉の自筆の句が書かれるも、学のない悲しさで読めません。

「枯枝」と「秋乃暮」の文字が大きく書かれているのを知れるのみ。
櫂氏の説明「枯枝にからすのとまりたるや秋の暮」とあるのを知る。
「乃」は現代の「の」なのですね。ぁ!これって、もしか万葉仮名?

…等と早目に「学の無さ」を曝け出している於多福姉で御座います。
この程度のレベルですので、お読みの方はご承知置き下さいませね。
「枯枝」と「秋乃暮」を印象づけたかったのなら、芭蕉は絵師なの?

即ち、芭蕉は書道の達人でなくとも、少なくとも書の心得は有った!?
それなら芭蕉は、この絵に相応しい書と「句」を書いた気がするわ。
枯木は子守柿かしら?烏瓜?何の紅い実?烏は芭蕉を警戒してるの?

恐らく、烏は巣に戻る前に枯木にとまって芭蕉の様子を見てるのね。
いや、烏の巣はもっともっと山の奥かも知れない…疑問が一杯だわ。
他にも何やら書いてる。雪山にも書いてある。櫂氏の援けが必要ね。

それにしても、この句は「さすが・俳聖」と言われるモノだと思う。

古池に蛙は飛込んだか

2014年10月02日 | (転載・記事)  総 合
さて、件の「古池に蛙は飛びこんだか」をザッと斜め読みしました。
悲しいかな、愚鈍の身にして著書の趣旨があんまり伝わってこない。
それならと、著者・長谷川櫂氏の略歴を見てみる事にいたしました。

氏は火の国熊本生れ。心温かい肥後もっこすを育てし地の出自です。
俳人・俳句結社主宰・朝日俳壇選者・東海大文学部教授。エリート。
東京大学法学部卒業・読売新聞記者を経験。学芸文学賞等多数受賞。

輝かしい経歴は・プリンスと言われている氏に相応しいと存じます。
なるほど。それなら於多福姉が氏の著書を理解できなくて当り前と、
変に納得できる・落ちこぼれの妙な自信の如きものが湧き上ります。

長谷川櫂氏は法学部を専攻なさって、文学部の教授に就かれたのね。
それでちょっと気になることが有って氏の句を検索する事にします。
春の水とは濡れてゐるみづのこと…昭和六十年。私は嫌いじゃない。

夏の闇鶴を抱へてゆくごとく…平成三年。説明に境地を求めたかな。
初山河一句を以って打ち開く…いつ頃の句でしょうか、決意の一句。
大阪でひとつ歳とる雑煮かな…記者時代に大阪で迎えた正月の感慨。

色んな顔を持ってるのが人間なんだって感じさせる氏のようです…。
長谷川氏の著書を以って芭蕉の古池を再認識できたらと思います…。
それには氏が阿呆では困ります、逆に優秀すぎる程の経歴でした…。

さて、
己の無知を知ることが全ての始まりだと考えている…於多福姉です。
柳の枝に跳びつこうとして失敗を何遍もくり返す蛙…於多福姉の図。
難しそうな著書・身の丈に合う服が似合うだろうに…於多福姉は汗。

蛙に人間を感じるなら

2014年10月02日 | (転載・記事)  総 合

人類は「蛙」にどんなイメージを持って・暮してきたのでしょうか。

蛙が飛込んだと捉えた時、そこには必ず水がなくてはならないはず。
「空井戸でも好いじゃないか」と考える人間は滅多にいないでしょう。
「蛇の口に飛込んだ」「ハイウェイに飛込んだ」とも考えないでしょう。
なぜ、そう言いきれるかと云うと、蛙を仲間と位置づける故にです。

西洋人はイザ知らず、日本人に付いてのみ申せば、そういう事です。
農耕民族・水耕栽培の日本で蛙は益虫であり、人間の友だちでした。
水田に涌く「ぼうふら」を愛でずとも、蛙の鳴き声は愛でられます。
蛙は古より、私たち人間の生活圏に接して・暮してきたのでしょう。

そんな蛙をイソップは寓話の中に数多く取り入れて・語っています。
「蛙と牛」「少年と蛙」「鼠と蛙」等…多くの教訓があります。
アンデルセン童話「親指姫」には醜い蟇蛙(ひきがえる)が登場し、
グリム童話「蛙の王子」は子供に愛を育むとして親しまれています。

日本でも掛け軸「柳に蛙」の蛙には人間くささを感じさせられます。
三すくみ「蛙・蛇・ナメクジ」や地雷也の蛙は絶対に欠かせません。
また「蛇に睨まれた蛙」に蛇を敵と感じる人間の仲間のイメージが、
諺「蛙の面に小便」には厚顔無恥なふてぶてしい態度が感じられる。

騒々しくて・傲慢で・欲深く、時に卑怯で、腰抜けで何とも人間的。
鳥獣戯画に描かれている蛙は、実に人間そのものではありませんか。
蛙のイメージは、人類のDNAにまで組み込まれているに違いない。
蛙に親しみを感じた芭蕉が選び、世人が納得する場所はどこかしら。

空井戸でなく、ハイウェイでなく、蛇の口でなければ、どこかしら。
イソップは「二匹の蛙」で深井戸も渇いた地も拒否し・嘆いている。
蛙にも人類にも奇麗な水辺こそが欠かせないと言いたかったのです。
正に、文明に荒らされる前の水辺こそは蛙の平安の棲み処なのです。

荒らされていない古池こそは蛙が安心して生息できる場所なのです。
古池に蛙が遊び・泳ぎ・昼寝しているのを見て、人は安らぐのです。
俳句は正に、健康で・安らかに・幸せに・仲良く生きる詩なのです。
そう捉える時『古池や』に希望・平和・自然との共生の詩が聞える。

評価は論理的がいい

2014年10月02日 | (転載・記事)  総 合
 「古池に蛙は飛びこんだか」ですから当然、論理性は必要でしょう
*****************************

著作は蕉風俳句の本質に迫ろうと長谷川櫂氏が残した爪跡だと思う。
氏の成果の有無は別にしても、著作から私が学べる物は多いと思う。

作句して感じる事は、詠むのに論理は必ずしも要らないと思うけど、
俳句の良し悪しを見るには論理的である方が判りやすくて良いはず。

俳句の論理をお持ちになってらっしゃるプリンス・長谷川櫂氏なら、
【古池や蛙飛こむ水のおと】をどう位置づけてらっしゃるのかしら。

秀作と結論づけるにしても、駄作と結論づけるにしても、答は明瞭。
論理を知り、論理を身につけたら、俳句の良し悪しが判る論理です。

それだけでも、時間をかけて著作を勉強する意味はあると言えます。
いいえ、それだけのために於多福姉はこのコミュニティを開きます。

俳句は論理的な物だって証明すべき画期的な著作に胸も高鳴ります。

松尾芭蕉を学ぶ

2014年10月02日 | (転載・記事)  総 合
俳聖・松尾芭蕉を学ぶ  2009年01月29日(木) 09:04:15

今、私の手元に一冊の本「古池に蛙は飛びこんだか」が置かれている

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

松尾芭蕉といえば「古池や」が真っ先に脳裏に浮ぶ人は多いでしょう。
私も全くその通りで、芭蕉の偉大さを証明している句と思っています。

俳句は誰もがイメージしやすく・理解しやすい句が佳いと思ってます。
そう考えた私に「古池や蛙飛こむ水のおと」は文句なしと思えました。

理屈なしに佳い句であると評価してきた句に理屈をつける俳人がいる。
それで「なんでやねん!?」と思って、訳を調べる気になった次第です。

件の主はペンネーム・長谷川櫂とおっしゃる句の世界で有名な方です。
俳句界のプリンスと評されていらっしゃる長谷川櫂氏に過ちはないわ。

それで詳しいことなど、何にも知らない於多福姉は彼に学ぶ事にする。
そして何にも知らない者である故に、疑問がいっぱい出ると思われる。

無知の私にも言えること…疑問が湧くほどに人は成長していけるはず。
長谷川櫂氏の知識をお借りし、松尾芭蕉を知るチャンスにしていこう。


そういう事で、ここは長谷川櫂氏の力をお借りして学んでまいりたい。


追記.2009年1月29日(木)
芭蕉に関して『古池』の句を聞きかじりに知る程度の於多福姉でした。
とにかく『古池』の俳句が大好き・芭蕉は素晴しいと思ってきました。
そんな中、長谷川櫂さんに触れることで芭蕉を知ることができました。

その事、お礼を述べておきたいと思います。ありがとうございました。
尚「古池に蛙は飛びこんだか」の間違いは感じる度に正した積もりです。

懐かしい過去記事

2014年10月02日 | (転載・記事)  総 合
    

利用が不自由になっている過去ログ、順次転載します
書き改めたくもPCの動作が重くてママならぬ‥大切な記録。
消えてしまわないうちに‥そのままコピペしてアップします。
ここは目録‥ヨロシケレバお気軽にご覧になってください。


             目  録

橋本多佳子 - 海燕 - 鑑賞

橋本多佳子 - 信濃 - 鑑賞

橋本多佳子 - 紅絲 - 鑑賞

橋本多佳子 - 海彦 - 鑑賞

橋本多佳子 - 命終 - 鑑賞

古池や蛙飛こむ水のおと - 研究

宮澤賢治 - 雨ニモマケズ - 研究

寺田虎彦 - 柿の種 - 鑑賞

松尾芭蕉 - 鑑賞

私の俳論



   ――――――只今、アップ作業中 ―――――――


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Nucleus(核・根幹・中心)

2014年09月14日 | (転載・記事)  総 合
熱き心で    oxooo 2011年05月01日(日) 20:25:34

暮しは分が大事です

気楽が何より薬です

そねむ心は自分より

以外のものは傷つけぬ

(これは「堀口大学」の座右の銘)

判っているから大丈夫ってことにならない。

それが人の世の面白いところなのでしょう。

ヤメロと止められたら反発する人間もいる。

チャンスと言われても行かない人間もいる。

欲を掻かず、自由な心で、世界を愛したい。

世界と言っても恋人のいない世界ではなく、

支え合いながら熱い心で歩いていきたいな。



コンセプト   oxooo 2011年05月01日(日) 19:40:50

このサイトはどういう所なの?
ともかく経験してないことを人は理解のしようがない、
私は普段から、こんな風に考えるように努めています。

きっと境涯によって見えるモノはそれぞれ違うと思う、
日本人の場合、西洋の人と違って境涯は様々だと思う。
家族でも一人ひとりの境涯は大きく異なってると思う、
そうなるのは私たちの社会は差別が大きいのだと思う、

だから日本人はバラバラでまとまるのが苦手なのかも、
もっとも心が繋がってたら人を粗末にできる訳ないし、
人並みの想いやりだって持てるようになれるのだけど、
自分が生きるだけで精一杯の社会なんだし、文化だし、

西洋育ちであれば当たりまえかもしれないことだけど、
だけど私は日本に育ち、日本文化に染まった身なのね。
日本人の感覚が身についた身ゆえの四苦八苦なのです。
自由であらねばならない、囚われてはならないと思う。

人間って、他の誰が捕えなくても、我で我を捉えます。
ちょっとでも気を抜くと、たちまち襲いかかってくる。
詩人は自由な魂なんて言ってても、口先ばっかりなの。
捕まらないように初めのころは紙に書いて持ってたよ。

そのうち、身体が憶えるから、そうなったらもう安心♪
そうして何年も経つと感覚化し血肉化して文化になる、
西洋の人だとコンセプトも文化になってるんだと思う。
コンセプトって言っても、人それぞれに意味は異なる、

そんな訳だから、コンセプトの意味も理解されにくい、
だけど言ったように、習慣化できるのが人間の強みで、
ハウツーを憶えることでコンセプトの甘味を覚えたり、
手近な仮目標を達成することでコンセプトに近づける。

人間って愚かで横着で我がままだけど、何とかなるさ、
自分だけは分ってるつもりで、じつは何も分ってない、
経験してないことは分らないのだと、分ってあげよう、
ほんとうは死ぬよりツライ思いなど、して欲しくない。

身から出た錆を見て、初めて錆びるってことも感じる、
だからそれまでは人に対して鬼以上の酷いこともする、
1足す1は2になり、2掛ける3は6になるってこと、
それを逃れる術はない、良い意味で嬉しいことだけど。

嗅ぎ聴いて味わい触れて共感できる幸せは人間のもの、
視覚をわざと抜いたのは、視覚に偏らない意味がある、
僅かばかりの所有に心を奪われることのないようにと、
だけどこれが実にじつに難しい所業でありましょうね。

人は余りにも、目に見える世界に捉われて仕舞います、
ことに先進国文明ほど、心を囚われ奪われて誤ります、
その結果、見ていても見えていず、ババを掴んでます、
欲深の目でいったい何を見ているやら、そう思います。




フランス語はむずかしい  oxooo 2010年09月06日(月) 00:32:44

これはgoogle検索の問題でしょうか?

同じように見える文章、だけど意味は異なる。どこが違うか判りますか?
plus la conversation. → より多くの会話。
Plus la conversation. → その他の会話。

空腹、飢餓、ハングリー、ハンガー、飢えた、の違いは構わない、
それにしても、フランス語では区別しているのでしょうね…?

Avoir faim. → ハングリー。
avoir faim. → 空腹。
Avoir faim  → ハンガー
avoir faim  → 飢餓

Hungry. → ハングリー。
hungry. → 空腹。
Hungry  → 飢えた
hungry  → 飢えた

それにしても、「.」(読点) を打つか打たないかで意味が変わるフランス語。英語にはない文法(約束事)でしょうか…?

mon favori. → 僕のお気に入りだ。
mon favori  → 私のお気に入り



御あいさつ    oxooo 2010年09月05日(日) 23:35:43

【散文詩/現代詩】へ、ようこそ、いらっしゃいました。

トップページには、このHPの運営の基本的な考えを述べています。
散文詩は現代詩が好ましいと【散文詩/現代詩】は考えますけど、
どこまでが現代かと問われたら言葉がつうじる範囲を現代とする、
とは言っても、国語辞典の言葉程度を知らなくては困るでしょう。

このHP【散文詩/現代詩】では散文詩を具体的に定義づけします、
作者が散文詩と宣言しなかったら散文詩にならないのでしょうか、
そんなことはありません。誰かが否定しても散文詩は散文詩です、
私は作文・日記・手紙・随筆等を日常用いる文体で書いています。

結局、その時代・社会に広く支持・理解されるには散文体が好い、
しかも、散文は現代語で書くほうが読みやすく・理解されやすい、
それゆえ散文詩はどんな文体が便利かと考えた時、現代語になる、
現代語の散文で、あなたの思いのたけを自由な感性で詠って好い。

散文詩ってなに?
そう問われて、散文詩を解かりやすく説明できる人は沢山いない、
ネット検索してみても、散文と散文詩の違いが解らない人は多い、
散文詩を解りやすく説明している著名な詩人のコーナーも少ない、
そうなのです、著名な詩人が散文詩を十分に説明し切れていない。

ボードレールの翻訳本のほとんどは、昔の言葉で書かれています、
含蓄はあっても難しい本は私が理想とする散文詩ではありません、
研究者には意味のある本も、一般人には高嶺の雪で体感できない、
そんなこんなを明るい光の下に明らめていきたいと思っています。

◎皆様のまじめなご意見は無視しないのも管理人のポリシーです。


(余談になりますが)
それにしても詩に親しまない人が古典に親しむことは滅多にない。
古典に奥の深い読み物があるのを知れば古文法に通じたくもなり、
歴史文学者が古典を研究するには古文法に通じなければならない。
日本の良い文化と美しい言葉を俳句で身につけることも可能です。

詩への入り口として、散文詩以外に俳句も良いかなと思っていて、
小学低学年の児童が五七五の文章をつくる意味は大きいでしょう、
高学年ともなれば、かなりなボキャブラリーを憶えることになる、
好きな子には歴史的仮名遣いの世界に入っていく道が開けている。

「仮名遣」も「かなづかひ」も、遣い難くて困ってしまう私です、
私は俳句につかう文字に関して「歴史的仮名遣い」を優先したい、
これはあくまでも「優先したい」のであって、絶対条件ではない、
絶対条件にすると現実生活との齟齬が大きすぎて難儀してしまう。

動植物の生き方は太陰暦に合せた歳時記に歴然と見えるわけだし、
日本人が生きる基盤にした稲作などの農耕は歳時記と呼吸が合う、
歴史的仮名遣いには農耕民族日本の文化が詰め込まれている事実、
農耕民族には太陰暦がやさしく暮らしやすい文化であるようです。

作文や日記を書くのに苦しめられた私の経験が言わせるのですが、
五七五の十七文字で済んで、大いに魅力を感じた記憶もあります。

ヒドリ

2014年09月14日 | (転載・記事)  総 合

◆ここからは、入澤氏の論に対する私の疑問を展開致します。



(1)で、入澤氏は賢治が「ヒデリ」を誤って「ヒドリ」としたと結論付けています。

しかも、氏は反論のしようがない明確な学問的な根拠を述べたと言っているようです。

これは実に頼もしい文に出合って、私の疑問にさっそく、楔を打って貰えそうです。



(2)は、入澤氏の明確な論稿を読んだ人は「ヒデリ」で一致する筈だと述べている。

それにも係わらず、入澤氏の論に批判的な人が少なからずいるようだと、おっしゃる。

批判的な人たちは、トンデモナイ弊害を引起す原因になると考えているのでしょうか。

そのトンデモナイ人たちのせいで入澤氏が心を痛めているとしたら大変です。

これはトンデモナイ人たちに正しい論を易しく教え諭してあげて頂きたいものです。

私はそのどちらに与する立場でもないけれど、誤った論は正されねばならないと思う。。



公平な立場で言えることは、「ヒドリ」「ヒデリ」の論を比べる必要があると思う。

明確な論を述べたのであれば、読解力があれば正しいと解かるはずですし、

誤った論を述べたのであれば、人々を間違った方向にミスリードするでしょう。

これはやっぱり、入澤康夫氏の論稿を丁寧に読ませて頂かなければなりません。



(3)では、私も・他人も、考えることは同じと知って、安心しました。

入澤氏が過去に述べた明確な根拠を今一度、述べてくださると書いてあります。

これはやっぱり、私が信頼したい入澤康夫氏であるという意味です。



(4)では、物書き一般は誤りを為す生き物であると述べておられるようです。

その意見には大いに賛成こそすれ、私としては批判するつもりはありません。

確かに宮沢賢治も生き物でありますから、書き間違いは起こるかも知れません。

◆そのことで入澤氏がなにを仰りたいのか、私の能力では判断がつきません。

その訳は、一般論をもって賢治が書き誤ったとするのは乱暴すぎるからです。

「物書きも書き誤る」というフレーズを生かす途は、賢治を庇う場合でしょう。

すなわち、賢治が書き誤ったと結論付けられた時に「彼も人間だよ」で済む。

しかし、入澤氏は賢治が誤ったという結論をまだ出せていないのです。

その段階で「物書きも書き誤る」という言い方をする入澤氏を私は理解できない。



(5)では、宮澤賢治の間違い癖を開陳していらっしゃいます。

つまり、物書き一般に通じる癖を、(5)では賢治に特定して強調している。

入澤氏は賢治が実に間違いの多い人間だったと証明しつつあります。

「賢治は偉い先生が指摘するとおり間違っていた」のでしょうか。

入澤さんには、愚かな賢治だと人々に思わせるお考えはないと思います。

それゆえに、私には(4)(5)のフレーズの意味が理解できないのです。



(6)の論稿については、要約して箇条書きにします。

a.入澤氏は、十年間の書き誤り論議で顕著な「ヒドリ」騒動であると述べる。

b.手帳に記された「雨ニモマケズ」は作品かメモか祈りかと思っておられる。

c.そのフレーズが世上の話題に上って・持てはやされ・広く知れ渡っている。

d.賢治は本当に「ヒデリ」を「ヒドリ」に書き間違っている。

e.出版された本は全て「ヒドリ」説を採らずに、「ヒデリ」で載せている。

f.原本を観た人は「ヒドリ」が「ヒデリ」に訂正された事を知った筈である。



a)で入澤氏が何をおっしゃいたいのか、その意図が分かりにくい。

「ヒドリ」と書いてある原本を「ヒデリ」に直さなければ騒動は起きません。

そうすると、騒動を起したのは入澤氏たち「ヒデリ派」という事になる。

しかも「ヒデリ」に直した「ヒデリ派」の責任者の名前は明らかにされない。

つまり、騒動を起したくない「ヒデリ派」はそっと訂正したかったのだろうか。

そっと訂正したかったのが本音なら、(f)は「ヒデリ派」の泣き事に聞こえる。

結局、入澤氏を理解したい私だが、(a)で何を言いたいのか不明なのです。



b) 「雨ニモマケズ」は作品か? 自戒自省のメモか? 祈りか?

これについては、私も同じ方向で受け留めています。

完成した「作品」であれば発表していたかも知れませんね。

賢治が「自戒自省」するフレーズを並べたのかも知れません。

記載された「菩薩・仏」を賢治は生きる道標としたのかも知れない。

詩というものは、心の発露ですから、信仰心が顕れるのは当然でしょう。

私は「雨ニモマケズ」は未完の作品だったように思っています。



c)未完の作品が世間の評判になり・持てはやされているのかも知れません。

しかし、未完であっても日本人の心を大きく捉えたのは間違いありません。

否、未完の菩薩である凡人、賢治の生き様が人々の心を打った気がする。

即ち、「人口に膾炙した章句」に見えて、人間の本質を突いた詩に思える。



d)「a・b・c」と述べてきて唐突に、賢治が書き誤ったという意味が分らない。

強圧的に「誤りだ」と怒鳴ったところで、誤りの証明にはなりません。



e)過去の出版本が入澤さんの正当性の根拠になるでしょうか。

文学者たる立ち場の入澤さんが、素人みたいに記載事実を根拠になさいますか。

これまでの所、入澤さんは「ヒデリ」だと云うだけで、根拠を示していません。



f)については、(a)でも触れましたが、別の視点も重要です。

つまり、「ヒデリ」と書かれた「詩碑」や出版物は数多くある訳です。

原本を見ていない人のためには全ての「詩碑」に「ヒドリ」の注釈が必要です。

よもや、入澤さんは「原本なんか見る必要はない」とは仰いますまい。

かりにも、そうなら、入澤さんは「自語相違」になるのではないでしょうか。



(7)入澤氏の論、ここでは二点に分けます。

g)入澤氏は「ろくに考えもせず」「新説」「ジャーナリズムの需め」と述べる。

入澤氏は方言「ヒドリは日雇いかせぎ(の賃金)」説は、誤りとする立場です。

「原文どおり」を誤りとするには、明確なる誤りの証明をしなければならない。

原文は「ヒドリ」であり、入澤氏には「ヒドリ新説」説の証明責任も生じます。



そもそも、詩を読むとき、大概の人は「ろくに考えもせず」に読みます。

入澤氏も「捻くり回しながら読むのが文学者」等とお考えではないでしょう。

因みに俳聖・芭蕉は「句整はずんば舌頭に千転せよ」(去来抄)と教えますが、

詩人が言葉を選び採るときは「意味だけが重要」とは絶対に言えません。

深くふかく考えた末の「ヒデリ」書き変えでなければならないし、証明責任も生じる。

然るに入澤氏はココに至るまで「ヒデリ」の正当性をお述べでありません。

あろう事か、「ジャーナリズムの需め」とまで言い切った責任は重大です。



h)私たち一般人が知る「雨ニモマケズ」は書き変えられた「ヒデリ」です。

・これは原文を知らない者の罪でしょうか?

・積極的に原文の「ヒドリ」を知らせなかった者の罪でしょうか?

・入澤氏は「不当に」と述べるが、それは文学を論じる正しい態度でしょうか?

・新聞・雑誌の「雨ニモマケズ」に、注釈・ヒドリは必ず載っているでしょうか。

・全国の「雨ニモマケズ」詩碑に、注釈・ヒドリは記載されているでしょうか。

原文「ヒドリ」ではいけない…とした根拠が薄弱では困ったものです。



全ては、「ヒドリ」を「ヒデリ」に書き変えた所に始まっています。

宮澤賢治の真意は「ヒドリ=日傭いかせぎ」でなかった証明がいちばん良い。

書き変えた正当なる根拠を明らかにしなければ、世の混乱を徒に招くのみ。

作品を部分的にも書き変えるなら、誰にも納得いく説明は当然欠かせない。

しかも、書き変えた事実を知らない人への配慮・責任感が欠けては困る。



(8)入澤康夫氏の論稿(1)~(7)に「ヒデリ」の正当性の証明はなかった。

逆に、「ヒデリ」に疑問を持つ人たちへの証明なき非難の言葉が目立ちました。

それは(1)~(7)の文を読み直して頂けば、どなたにも解かることで、

その入澤康夫氏の感覚で、(8)では「宮澤賢治」の人間が述べられている。

この入澤氏の文の中にも、宮澤賢治の真実は見えているようです。



入澤氏は「ヒドリ」が「日傭い(の賃金)」では、前後と文脈的につながらないとする。

すると、「ヒドリ」では詩にならないのでしょうか…これは興味のある指摘です。



入澤氏は大要・次の資料を引用して賢治を決めつけるが、それは正しいだろうか。

・賢治は、「夏の寒さ」と「ひでり」を、農家が困ることとしている。

・「いちばんつらいのは夏の寒さでした。そのために幾万の人が飢え幾万のこどもが孤児になったかわかりません。」「それは容易なことでない。次はどういふことなのか。」

・「次はひでりで雨の降らないことです。幾村の百姓たちがその為に土地をなくしたり馬を売ったりしました。」

・「毘沙門天の宝庫」では、「旱魃」にルビをつけようとして誤りに気付き、「ど」を消して、「でり」と改め

・生前発表形でも、旱魃の意味の「ひでり」が「ひどり」となっているところがある。



入澤氏が出してきた資料から確実にいえる真実は何でしょうか?

すなわち、宮澤賢治の脳裏に「ヒドリ」があったということではないでしょうか。

冷夏や旱(ひでり)続きで、農民は働く場所・住む場所を失くした事もあった。

そんな農民は今日の命をつなぐために「涙を流して」娘を手放したかも知れない。

娘が『児童手当』をもらえていたら、身売りせずに済んだかも知れないでしょう。

入澤氏が出した賢治の資料から、私にはこのようなシーンが浮かびます。



いっぽう、入澤氏から引出されたモノは「賢治は書き誤る傾向があった」でした。

ひとつの資料を観て、死刑判決を下す判事がいて、無罪判決を下す判事がいる。

足利事件の菅家利和さんを有罪にした証拠採用は東大の権威に依るものでした。

大胆な「書」の大家であっても、マトモな楷書を書けると考えるべきですし、

ピカソだって、デッサン力はピカイチなのです。

青の時代のピカソの絵をみて、ピカソは青い絵しか描けないと考えるべきでない。

しかも、ピカソは青の時代に留まらず、抽象画へと進化しました。



また、宮澤賢治は成長する能力がない思考停止状態みたいな言い方は遺憾です。



如何でしょうか? お教え願いたいと存じます。

入澤氏の「宮澤賢治は間違いボウズ」の証拠は採用されるべきでしょうか?



(9)では、入澤氏が過去に述べた経緯をつづっているようです。

入澤氏は、その内容は「会誌・賢治研究」に載ったとおっしゃる。

それと略・同じ内容を、私たちは今・こうして読んでいるらしいのです。



入澤康夫氏の文、既に読み終えた部分で注目すべきは一点のみでした。すなわち、

『(8)「ヒドリ」が「日傭い(の賃金)」では、前後と文脈的につながらない』です。



この部分は先に述べましたように、「ヒドリ」で意味は完ぺきに通じています。

「ヒデリ」で家や田畑を失うとは限らない、それでも旱で泣く人はいるかも知れない。

だけど「ヒドリ」の状況に追い詰められると、誰もが「涙を流す」のでしょう。

賢治の中で「ヒデリ」は苦しいけれど、「ヒドリ」は一家離散に直結したと思う…。



如何ですか? 私のこの想像は、ぜったいに有り得ないモノでしょうか?

実際「有り得ない」というのが、『賢治研究』の明快な結論であって欲しい。



(10)ここでも入澤氏の論調は私の理解の範囲を超えているようです。

入澤氏は「どんな物書きでも書き誤りはする」と述べられる。

それならこそ、推敲に推敲を重ね・尚それでも誤りは起ると知るべきです。



賢治の「意図」を己の掌におさめられると考えるなら傲慢ではないだろうか。



作者の意図を己の経験値で量るのは作者を尊重する行為でしょうか?

本文校訂の責任の重さを知って、原文と異なる詩碑等にはその旨を載せるべきです。



結局、「雨ニモマケズ」に関して、宮澤賢治に些かの落ち度も見えない。

宮澤賢治の詩を改編した人物こそが非を認めて改めるべきです。

入澤氏の(10)の論旨を証拠採用したとき、私のこの結論に至りました。

私の結論が間違いである事の証明がなされれば幸いです。



尚、次のフレーズですが、トンデモナイ考えちがいをなさってる気がします。



>(本文校訂は)多くの困難をともなうものであることを、読者も、編纂者も、出版社も、ここいらで再確認していただきたいと、つくづく思う。



(11)入澤氏が述べたいことの三分の二は(10)迄に終えられたようだ。

つまり「反論のしようがない明確な学問的な根拠」の三分の二が(10)迄らしい。

だが、入澤氏が既に述べた根拠は只一つ、(8)の文脈のワンフレーズのみでした。

曰く、『「ヒドリ」が「日傭い(の賃金)」では、前後と文脈的につながらない。』



穂孕期の冠水は水稲に良いものではないでしょうが、今は問題ではありません。

水田農業に「夏の寒さ」と「旱魃ひでり」は、困ることの筆頭かも知れません。

とは言え、水争いも解決した時は笑って済ませられそうです。

すると、ヒデリの本当の恐ろしさは「ヒデリそのモノではない」となります。

それについては、(8)(9)で具体的に述べたばかりです。

「ヒドリ」の立場に追いやられた人の胸中を思えば、痛ましいばかりです。



(12)私の推測どおりなら、賢治の書き誤りとする判定は勇み足になる。

「現代日本を代表する詩人」「芸術院会員」の校訂に口は挿めぬ」とか、

「高村光太郎の揮毫により建立した賢治詩碑は「ヒデリ」である」とばかり、

間違いをそのまま生徒に暗誦記憶させたり、碑に刻んで後世に遺す手法のは、上に述べたような事情をわきまえず、すでに成り立たないことが明らかになっている「ヒデリ」説や、「ヒドリ=日傭取りの賃銭」とする賃銭に重きを置き過ぎるあまりに賢治の真の思いから乖離してしまった主張になおもすがりついてはならないと思うのです。

賢治が常に念頭に置いていたのは、「ヒドリ=追い詰められ・路頭に迷い・一家離散し・離れ離れになった家族を思って流す涙」と、ここに辿りつくのは詩人なら当然であろうと思うのは私の感覚が狂っているのでしょうか…。

そうであれば、「一知半解」の者とは正しく私のことでありましょう。

「雨ニモマケズ」を不適切な扱いにせず、ひいては賢治の営為の本質に対する冒涜にならぬ為にもあらためてここで強調して、明確なる入澤康夫さんの御説明をお願いしたいと思います。



(13)是が非でも賢治は間違いであり、高名な高村光太郎氏に倣って「ヒデリ」と碑に刻むというなら、碑の裏の銘板に「『ヒドリ』を『ヒデリ』に直した正当性の注記がなされることが建碑者の、後世に対する欠かせない責任でしょう。

児童・生徒に教える時も原詩は「ヒドリ」であるとはっきりと教えるべきですし、そして、どうしても言いたければ≪「じつは賢治はここをヒドリと書き誤っているのだよ。賢治だって書き間違いをするんだねぇ」と付言する程度にするべきだと思う≫という見解として、付け足すべきではないでしょうか。



14)~(33)で、「ヒデリ」に賢治が心を痛めた事が想像できます。

ヒデリ、ヒデリ、ヒデリ…何百遍、何万遍、舌頭に転がしたことでしょう。

そして次のように、入澤氏が提供する資料(16)~(19)は証言しています。

(16)それへ較べたらうちなんかは半分でもいくらでも穫れたのだからいゝ方だ

(16)耕地整理になってゐるところがやっぱり旱害で稲は殆んど仕付からなかった

(16)あんなひどい旱魃が二年続いたことさへいままでの気象の統計にはなかった

(16)どんな偶然が集ったって今年まで続くなんてことはない筈だ

(16)気候さへあたり前だったら今年は…いままでの旱魃の損害を恢復して見せる。

(18)主人もまるで幾晩も睡らないで水を引かうとしてゐました

(19)秋のとりいれはやつと冬ぢゆう食べるくらゐでした。

(19)来年こそと思つてゐました

(19)もうどうしても来年は潮汐発電所を全部作つてしまはなければならない

(19)(発電所が)できれば今度のやうな場合にもその日のうちに仕事ができる

(19)沼ばたけの肥料も降らせられるんだ

(19)旱魃(ルビ「かんばつ」)だってちつともこわくなくなるからな

(19)雨もすこしは降らせます

(19)旱魃の際にはとにかく作物の枯れないぐらゐの雨は降らせることができます

(19)いままで水が来なくなって作付しなかつた沼ばたけも、今年は心配せずに…

(19)あんな旱魃の二年続いた記録が無いと測候所が云った



これ等の資料のどこに弱気な農民の姿が見えるでしょうか。

私の目には、大いなる楽観主義で前向きに取り組む農民の意気込みが見える。

「ヒデリ」如きでくじけて泣くような弱虫に、百姓仕事が勤まるだろうか。

どんな「ヒデリ」にも耐えて、打開策を講じて生きる懸命な農民たちなのです。

極限に置かれても、なお、次のように強く祈る姿が見える。


(16)いったいそらがどう変ったのだろう。あんな旱魃の二年続いた記録が無いと測候所が云ったのにこれで三年続くわけでないか。

(25)そしてその夏あの恐ろしい旱魃が来た

(26)この湿気から/雨ようまれて/ひでりのつちをうるほせ


その祈りも届かず、打ち続く「ヒデリ」に、農民の生活環境は激変します。


(16)父は水田一町一反畑地一町三反と、林三反歩原野一反歩母屋外三棟を有する自作農。前二年続ける旱害のため総て抵当に入れり

(18)みんなは毎日そらをながめてため息をつきました。

もはや、ため息を吐くしかない所に追い込まれます。そして、

(22)さびしい不漁と旱害のあと、

(23)みんなはあっちにもこっちにも/植ゑたばかりの田のくろを/じっとうごかず座ってゐて/めいめい同じ公案を/これで二昼夜商量する…

商量する:売り手と買い手が腹をさぐり合い・値踏みし・相談し・交渉する。

なにを交渉しているのか、私は解かりませんけれど…。

(28)で入澤康夫氏は次の詩を紹介なさいます。



●詩「発動機船 一」

 …あの恐ろしいひでりのために みのらなかった高原は

 いま一抹のけむりのやうに この人たちのうしろにかゝる…

 赤や黄いろのかつぎして 雑木の崖のふもとから

 わづかな砂のなぎさをふんで 石灰岩の岩礁へ

 ひとりがそれを運んでくれば ひとりは船にわたされた

 二枚の板をあやふくふんで この甲板に負ってくる



「この人たちのうしろにかゝる…」借金のカタに取られたのは?

恐ろしい「ヒデリ」を乗越えた親といえども、

娘たちのことを思っては涙を流すに違いない。



さて、入澤康夫氏の資料をここまで読み進んできて、私の結論は出たようです。

入澤康夫氏の論稿を読み間違えていなければ、私の危惧どおりでありましょう。

宮澤賢治の書き間違いではないとは、決して断定するものではありませんけれど、

「ヒデリ」に改変しなければならない根拠は入澤氏の論稿のどこにも見つかりません。


すなわち、「ヒドリ」は誰かの好み・感覚で変えられたという事になります。

その誰かが宮澤賢治を軽くみて手直ししてあげたとまでは申しませんけれど…。

賢治の中で「ヒドリ」は重いフレーズだったのか、軽いフレーズだったのか?

私の疑問は、あくまでも入澤康夫氏の論稿に起因したものと申し添えておきます。


ここまで読み終えた今、私が感じるのは、

宮澤賢治に関して予備知識を持たない私が「ヒドリ」の重みを感じたのは入澤氏の論稿に依ります。

ゆえに、これらの資料をまとめて下さった入澤康夫氏の貢献は大きいと思いますし、感謝申します。

拝。




【入澤康夫氏のプロフィール】

入澤 康夫(いりさわ やすお)氏は1931年11月3日生れ・島根県松江市出身の詩人、フランス文学者、日本芸術院会員。

・東京大学文学部仏文科卒業。1955年、在学中に詩集「倖せ それとも不倖せ」を出版。詩論集を多く発表し、実作のみならず理論面でも多大な影響を与える。宮沢賢治、ネルヴァル等の研究でも名高い。フランス詩の翻訳も行っている。2008年芸術院会員。

(主な経歴)

明治学院大学助教授

東京工業大学助教授

明治大学文学部教授




★★★

上記、氏のプロフを拝見するに輝かしい経歴です。

明解な解答を論に知ることが出来たと考えるのですけれど、結論が賢治死刑と賢治無罪に別れたことは残念です。

ヒドリ論

2014年09月14日 | (転載・記事)  総 合
賢治の遺品「雨ニモマケズ手帳」に綴られた『雨ニモマケズ』の詩、

仕事の合間に思い浮かんだフレーズは溜まって、やがて詩に成長した。

賢治は楽しい思い・辛い思い・苦しい思い・悲しい思いをしたと思う。

己が苦しければ、他人の苦しみにも思いが及ぶのが詩人・菩薩です。

詩人の思いは、弱い人・虐げられている人への思いとなって膨らむ。

その思いが頂点にまで膨らみ・結実して産声は元気にあがるのだろう。



推敲半ばに病に倒れた賢治を偲ぶ人たちの思いが詩を蘇らせたのか。

早産児が力なきが如く、この詩も完ぺきとは言えないかも知れない。

良医は未熟児を貶す事なく・その命をつなぎ留め・育てようとする。

その未熟児の母が懸命に耐え・戦ったことを誉めて労い・祝福する。

その母の想いを我がモノとしてこそ、赤子の力を引き出せるのです。

未熟児という事だけで外科手術するのは理に合わないと思うのです。



『雨ニモマケズ』は「ヒドリ」をそのままに置くのが好いと思った。

その上で「ヒドリ」が致命的な欠陥だとなれば外科手術も必要かも。

詩『雨ニモマケズ』に「ヒドリ」が使われてはならないのだろうか。

「ヒドリ」が気に入らないだけだという文学者はいないと信じたい。

その答えを得るために、批判的立場の人の言葉にも学ばねばならむ。

そう考えて、そして辿りついたのが入澤康夫氏が展開する持論です。



なお、入澤康夫氏の論は、次のHPに明らかです。

 宮沢賢治学会イーハトーブセンター



読み進む都合上、次下に入澤康夫氏の件の論のコピーを載せてあります。

尚、文頭の(数字)は、読みやすくする目的で私が振ったものです。




    【入澤康夫氏の『ヒドリ』誤まり論】


(1)もう十三年前、一九九二年の初めに出た「宮沢賢治」誌十一号に、私は「賢治の『誤字』のことなど─『ヒドリ』論議の決着のために」という小文を発表して、「〔雨ニモマケズ〕」中に賢治が書いている「ヒドリ」は「ヒデリ」の書き誤りであり、その点では過去の諸刊本がこれを「ヒデリ」と校訂してきたのは正しい処置であったと述べた。実際、この問題に関しては、学問的には、当時すでにはっきりと答えが出ていたのであり、もはや論議の余地は無いと考えるに到っていた。


(2)ところが、一般社会では、この問題をとりあげた大新聞の記事の力もあってか、いまだに「ヒドリ」が正しく「ヒデリ」に直すのはよろしくないと、思いこんでいる方々もかなりあるようだ。そしてそれが、場合によっては、大きな弊害さえ生みかねない(現に生んでしまってもいるらしい)ことを知って、心を傷めている。


(3)そこで、編集委員会の依頼もあり、前記十三年前の拙文の要旨を、以下に抄出して、読者の皆様に今一度、問題の本質を確認周知していただきたいのである。


(4)その度合いの多い少ないはあるにしても、どんな物書きでも書き誤りはある。「弘法も筆のあやまり」という諺さえあるぐらいだ。筆の勢いでつい誤った字を書いてしまう、あるいは必要な字を抜かしてしまう、といったことに関しては、宮沢賢治にしても例外ではない。


(5)平仮名で「ほんたう」と書くとき、賢治はときどき「ほうたう」と誤記している。これは、原稿を書いているとき、手より頭の方が先回りしすぎて、一字または二字先に書くべき字を書いてしまうという傾向──これが賢治にはきわめて顕著である──の結果であろう。たいがいは、書いたとたんに気がついて、抹消して、正しく書き直しているが、気づかず、そのままになってしまうものもある。


(6)こうした「書き誤り」についての論議で、ここ十年間の、もっとも顕著な例は、あの「〔雨ニモマケズ〕」中の「ヒドリ」の二字にかかわる一さわぎであろう。手帖の一冊に記されたあのあまりにも人口に膾炙した章句(作品?自戒自省のメモ?祈り?)の中の、

ヒデリノトキハナミダヲナガシ

サムサノナツハオロオロアルキ

の箇所で、賢治は実際には「ヒデリ」を「ヒドリ」と書いている。これを、これまでのすべての刊本では、「ヒデリ」の書き誤りと見て校訂し本文としている。そして、そのことはけっして秘し隠されていたことではなく、すでに手帖そのものの複製や、当該数ページのファクシミリ等も世に出ていたし、『校本宮澤賢治全集』でも、校訂した上で事実を明記していて、その意味では、世に公開されていたわけである。


(7)ところが、「ヒドリ」は誤記ではなく、このままで「日傭いかせぎ(の賃金)」のことを言う方言なのだ、これまでの諸刊本の処置は誤っている、「ヒデリにケガチ(飢饉)なし」というくらいで、ヒデリは農民にとって不都合なことではない、ということを言い出した方があり、ある大新聞がそれにとびついて、全国版社会面のトップで大きく扱い、しかも原文が「ヒドリ」であることをこれまで不当に隠されていたかのごとき印象を与えるセンセーショナルな書き方をしてしまった。しかも、何人かの人々が、ろくに考えもせずに、この新説を支持する言辞をジャーナリズムの需めに応じて発表した。そのため、事ははなはだ面倒なことになって、記事の扱いの大きさなどから言って、世間一般では、「ヒドリ=日傭いかせぎ」説の方が正しいとまでは思い込まないにしても、論議は五分五分の形で、いまだにケリがついていないくらいに考えられているようだ。さらに副産物(?)として、「文学作品本文は、いっさい作者の原稿通りであるべきだ」といった趣旨の、俗耳には入りやすいが、実は暴論としかいいようのない発言もとび出す始末で、情けない限りであった。


(8)しかしながら、この問題については、前記新説の成り立つ余地は限りなくゼロに近く、逆に従来の(「ヒドリ」を「ヒデリ」の誤りと判断して本文では校訂する)立場は、確かな根拠(内容から言っても、本文批判的立場から言っても)がいくつもある。「ヒドリ」が「日傭い(の賃金)」では、前後と文脈的につながらないこと。賢治が、いくつもの作品(「グスコーブドリの伝記」ほか)で、常に「夏の寒さ(冷夏)」と「ひでり(旱魃)」とを、農家が困ることとして扱っていること。それが最も端的に書かれているのは、「グスコーブドリの伝記」の下書稿に当たる「グスコンブドリの伝記」の第七章冒頭部であろう。そこには、次のような対話が出てくる。

「ブドリ君‥‥‥沼ばたけ(水田)ではどういふことがさしあたり一番必要なことなのか。」

「いちばんつらいのは夏の寒さでした。そのために幾万の人が飢え幾万のこどもが孤児になったかわかりません。」

「それは容易なことでない。次はどういふことなのか。」

「次はひでりで雨の降らないことです。幾村の百姓たちがその為に土地をなくしたり馬を売ったりいたしました。」

 また、賢治の詩稿の一つ「毘沙門天の宝庫」では、「旱魃」に自分でルビをつけようとして、まず「ひど」まで書いて、誤りに気付き、「ど」を消して、「でり」と改めて続けている現場が見られる。これなどは、賢治が「ひでり」を時として「ひどり」と書き誤る傾向があったことを示しているし、また、「グスコーブドリの伝記」の生前発表形(昭和七年に「児童文学」に掲載)でも一カ所、旱魃の意味の「ひでり」が「ひどり」となっているところがある。これなどは、印刷上の誤植というより、元原稿そのものの誤りがそのまま活字化されたものである可能性が高い。


(9)こうした点については、すでに雑誌「賢治研究」五十三号(一九九〇年十一月)に平沢信一氏の明確な指摘があり、私もまた一九九〇年秋に池袋で行われた賢治フォーラムの席上で、資料のコピーを添えて説明し、その要旨は、やはり「賢治研究」五十四号(一九九一年二月)に載ったが、同誌は研究会の会誌として一般の目に触れにくいと思うので、ここに、今一度記した。


(10)話は、冒頭にもどるが、どんな物書きでも書き誤りはする。諸々の証拠に照らして誤りと判断できるものを、正しく校訂して本文にすることは、作者の意図を尊重する上で必要不可欠のことである。そうした本文校訂の責任は、きわめて重く、かつ多くの困難をともなうものであることを、読者も、編纂者も、出版社も、ここいらで再確認していただきたいと、つくづく思う。


(11)以上が、かつての拙文からの約三分の二の抄出である。

 賢治は、上記引用中にもあるように、水田農業にとって、「夏の寒さ」と「旱魃(ひでり)」は、困ることの筆頭に考えていた。「穂孕期」に日照が不可欠であり、「ヒデリにケガチなし」と諺にあるとしても、それは「日照」のことで、苗代期・田植期の「旱魃」(往々水争いなども起こった)のことではない。「旱魃」の「恐ろしさ」に触れた箇所は、賢治の詩にも童話にも、あちこちに見られる。


(12)文理的にも、本文批判的にも明らかに書き誤りと判定される箇所を、「あの賢治さんが書いたものだから変えてはならぬ」とばかり、間違いをそのまま生徒に暗誦記憶させたり、碑に刻んで後世に遺したりするのは、上に述べたような事情をわきまえずに、すでに成り立たないことが明らかになっている所説(「ヒドリ=日傭取りの賃銭」といった、書き手のその時の意識には浮かんでもいなかったことを主張する説)になおもすがりついた、一知半解の不適切な扱いであり、ひいては賢治の営為の本質に対する冒涜にもなることを、あらためてここで強調しておきたい。


(13)是が非でも賢治が書いた通りに碑に刻むというなら、碑の裏の銘板に「『ヒドリ』は『ヒデリ』の作者の書き誤りであるがそのままにする」といった主旨の注記がなされることが建碑者の、後世に対する責任として不可欠だろう。児童・生徒に教える時もはっきり「ヒデリ」と教えるべきである。そして、どうしても言いたければ「じつは賢治はここをヒドリと書き誤っているのだよ。賢治だって書き間違いをするんだねぇ」と付言する程度にするべきだと思う。
(顧問 神奈川県川崎市)




「ヒデリ」の文献的根拠 入沢康夫


(14)先ごろ「会報第30号ヤナギラン」に《「ヒデリ」──「ヒドリ」問題について》という一文を載せていただきましたが、その中で「ヒドリをヒデリに校訂する立場には、確かないくつもの証拠がある」と書きましたところ、そのいくつもの証拠をもっと示せというお声がかかりました。そこで、やや長文に及びますが、上記拙文では紙面の関係で挙げられなかったものを(気がついた限りで)童話と詩に分けて順不同に列挙してみます。(丹念に拾えばもっと増えると思います。)


(15)

●童話「双子の星」

1. 私共の世界が旱(ルビ「ひでり」)の時、痩せてしまった夜鷹やほととぎすなどが、


(16)

●童話「〔或る農学生の日誌〕」

1.高橋君は家で稼いでゐてあとは学校へは行かないと云ったさうだ。高橋君のところは去年の旱魃がいちばんひどかったさうだから今年はずゐぶん難儀するだらう。それへ較べたらうちなんかは半分でもいくらでも穫れたのだからいゝ方だ。〔注:「半分でもいくらでも」は「例年の半分かそこら(半分程度)だったにしても」の意であろう〕

2.耕地整理になってゐるところがやっぱり旱害で稲は殆んど仕付からなかったらしく赤いみぢかい雑草が生えておまけに一ぱいにひゞわれてゐた。/やっと仕付かった所も少しも分蘖せず赤くなって実のはいらない稲がそのまゝ刈りとられずに立ってゐた。 

3.あんなひどい旱魃が二年続いたことさへいままでの気象の統計にはなかったといふくらゐだもの、どんな偶然が集ったって今年まで続くなんてことはない筈だ。気候さへあたり前だったら今年は僕はきっといままでの旱魃の損害を恢復して見せる。

4.水が来なくなって下田の代掻ができなくなってから今日で恰度十二日雨が降らない。いったいそらがどう変ったのだろう。あんな旱魃の二年続いた記録が無いと測候所が云ったのにこれで三年続くわけでないか。


(17)

●上記作品の創作メモ  創26「黎明行進歌」。

1.《父は水田一町一反畑地一町三反と、林三反歩原野一反歩母屋外三棟を有する自作農。前二年続ける旱害のため総て抵当に入れり、》 

2.《[一九二五年]六月 旱害 七月 旱害》 

3.《[一九二六年]六月 旱害》


(18)

●童話「〔グスコンブドリの伝記〕」

1.ところがその次の年はちゃうどオリザを植え付けるころから雨がまるで降らず毎日そらはまっ青で風は乾いてゐましたのでどこの沼ばたけもまるで泥がかさかさに乾いてしまひだんだんひゞも大きくなってきました。ブドリたちは一生けん命上流の方から水を引いて来やうとしましたがどこのせきにも水は一滴もありませんでした。主人もまるで幾晩も睡らないで水を引かうとしてゐましたがやはりだめでした。

2.たびたびの寒さだの病気だの旱魃だののためにいつの間にかもう沼ばたけも昔の三分一になってしまって

3.雨はちょっと降りさうになっては何べんも何べんも晴れてしまふのでした。みんなは毎日そらをながめてため息をつきました。/「さあブドリ君、たうたうひどい日照りになった。(下書部分)

4.ところがそれから二年たってまた旱魃がやってきました。毎日毎日そらは乾いて沼ばたけはあっちもこっちもまたひゞがはいったといふやうなしらせは毎日新聞へ出てきました。(下書部分)


●童話「〔グスコーブドリの伝記〕」(「児童文学」発表形)

1.ところがその次の年はさうは行きませんでした。植ゑ付けの頃からさつぱり雨が降らなかつたために、水路は乾いてしまひ沼にはひびが入つて。秋のとりいれはやつと冬ぢゆう食べるくらゐでした。来年こそと思つてゐましたが次の年もまた同じやうなひどり(「ひどり」は発表誌のママ)でした。    

2.クーボー大博士は(中略)そしてしまひに云ひました。/「もうどうしても来年は潮汐発電所を全部作つてしまはなければならない。それができれば今度のやうな場合にもその日のうちに仕事ができるし、ブドリ君が云つてゐる沼ばたけの肥料も降らせられるんだ。」「旱魃(ルビ「かんばつ」)だってちつともこわくなくなるからな。」ペンネン技師も云ひました。

3.「(前略)雨もすこしは降らせます。/ 旱魃(ルビ「かんばつ」)の際にはとにかく作物の枯れないぐらゐの雨は降らせることができますから、いままで水が来なくなって作付しなかつた沼ばたけも、今年は心配せずに植え付けてください。」 (火山局ポスター )


(20)

(以下、詩に関しては、確認の便宜を図って『新校本全集』の巻数頁数を付記します)


(21)

●詩「一八一 早池峰山巓」16、17行

 九旬にあまる旱天(ルビ「ひでり」)つゞきの焦燥や/夏蚕飼育の辛苦を了へて (第三巻 本p.111 校p.272)


(22)

●詩「三五六 旅程幻想」初行

 さびしい不漁と旱害のあとを (第三巻 本p.164 校p.397)


(23)

●詩「二五八 渇水と座禅」6行?11行

 さうして今日も雨は降らず/みんなはあっちにもこっちにも/植ゑたばかりの田のくろを/じっとうごかず座ってゐて/めいめい同じ公案を/これで二昼夜商量する…… (第三巻 本p.221 校p.536)


(24)

●詩「三一七 善鬼呪禁」末尾より6行と同5行

 どうせみんなの穫れない歳を/逆に旱魃(ルビ「ひでり」)でみのった稲だ (第三巻 本p.141 校p.340)


(25)

●詩「一〇二二〔一昨年四月来たときは〕」最終行

 そしてその夏あの恐ろしい旱魃が来た (第四巻 本p.55 校p.110)


(26)

●詩「一〇七六 囈語」後半部

 せめてもせめても/この身熱に/今年の青い槍の葉よ活着(「活着」にルビ「つ」)け/この湿気から/雨ようまれて/ひでりのつちをうるほせ (第四巻本p.264 校p.327)


(27)

●詩「一〇七六 病中幻想」最終連

 せめてはかしこ黒と白/立ち並びたる積雲を/雨と崩して堕ちなんを (第七巻 本p.235 校p.613)


(28)

●詩「発動機船 一」9?12行

 ……あの恐ろしいひでりのために/みのらなかつた高原は/いま一抹のけむりのやうに/この人たちのうしろにかゝる……(第五巻 本p.10 校p.9)


(29)

●詩「毘沙門天の宝庫」下書稿初形22行以下

 旱魃(ルビ「ひ[ど→(削除)]でり」と手入れしてある)のときあいつが崩れて/いちめんの雨になれば(中略)

 大正十三年や十四年の/はげしい旱魃のまっ最中も/いろいろの色や形で/雲はいくども盛りあがり/また何べんも崩れて暗くひろがった/けれどもそこら下層の空気は/ひどく熱くて乾いてゐたので/透明な毘沙門天の珠玉は/みんな空気に溶けてしまつた (第五巻 校p.48?49)


(30)

●詩「毘沙門天の宝庫」本文22行以下

 もしあの雲が/「旱(ルビ「ひでり」)のときに、」/人の祈りでたちまち崩れ/いちめんの烈しい雨にもならば/(中略)/大正十三年や十四年の/はげしい旱魃のまっ最中も/いろいろの色や形で/雲はいくども盛りあがり/また何べんも崩れては/暗く野原にひろがった/けれどもそこら下層の空気は/ひどく熱くて乾いてゐたので/透明な毘沙門天の珠玉は/みんな空気に溶けてしまつた/(第五巻 本p.50?52)


(31)

●詩「旱倹」本文第二連

 野を野のかぎり旱割れ田の、白き空穂のなかにして、/術をもしらに家長たち、むなしく風をみまもりぬ。 (第七巻 本p.80   校p.252)


(32)

●詩「〔歳は世紀に曾って見ぬ〕」 3-4行

 人は三年のひでりゆゑ/食むべき糧もなしといふ  (第七巻 本p.181 校p.535)


(33)

《まとめ的追記》 

 以上に列挙しましたように、「旱魃(ひでり)」、「旱魃(かんばつ)」、「旱(ひでり)」「ひでり」といった語は、賢治の書き遺したものの中では、きまって、「困ったもの」「つらいもの」「恐ろしいもの」「せめて、涙とか、自分の身熱から生ずる汗でもって、ほんの少しでも渇きをうるおしたいもの」といった負のニュアンスで出て来ます。

(これに反し、日雇い労働の辛苦のニュアンスをこめた「ひどり」という語は、あれほど農家や農作のことに言及している賢治の莫大な文中(作品・書簡・雑纂等、現在知られているすべてを含めて)には、ただの一箇所も見付かっていません。「葬式」「肥取り」などの意味でも、もちろんです。)


(34)

《付録》

「ヒドリ」→「ヒデリ」の校訂に対する、論難と反駁(「ビジテリアン大祭」ふう)


論難者A :手帳に書かれた、この「雨ニモマケズ」のいくつかの箇所で賢治は字句の手直しをしている。「ヒドリ」が誤記なら、賢治はその手入れの際に気がついて訂正した筈ではないか。

駁論者A :これらの手直しは筆記具・筆致も同じで、おそらく皆、書きながらの直しであり、後日見直しての手入れはされていない。同様の誤字の例は、たとえば同じ手帳の十数頁あとの70頁に書かれた「諸仏ニ報ジマツマント」にも見られる。その前後にいくつかの手直しや抹消が見られるが「マツマント」は「マツラント」に訂正してない。

論難者B :同じ手帳の近くの頁に記された劇のメモ「土偶坊」中では「ヒデリ」とあり、こんな近くで同じ語を書き誤るはずがない。

駁論者B :賢治の草稿類では、同じ紙葉上や次の紙葉上に同じ語句が繰り返し出てきて、そのうちの一つだけが書き誤りになっていることさえ、ままあることだ。むしろ近くにヒデリがあることは、ヒデリへの校訂をバックアップしているともいえるのではないか。

論難者C :詩「善鬼呪禁」に「旱魃でみのった稲」とあるが。

駁論者C :前後をよく読むと「その歳はその田だけがみのって、他のみんなの田は収穫がなかった」のである。

論難者D :ヒドリ=日手間取り説の創唱者は賢治の教え子であり、多年賢治顕彰に力をつくしてきた、秀れた人格者で、そういう人の判断は何よりも優先すべきだ。

駁論者D :一つの説の妥当性有効性は、その説の創唱者の人格や経歴によって左右さるべきものではない。これは言うまでもないことだ。

論難者E :あれほど執拗に推敲を繰り返し、言葉を選んだ賢治が、文字を書き誤るなどということがあるのだろうか。

駁論者E :校本全集の各巻巻末や新校本全集各巻の校異篇末尾にある「校訂一覧」を見れば、そこには本文で校訂した賢治の誤字が、何十も並んでいる。手入れの書込みの字句に誤字があることさえも、往々ある。

論難者F :とにかく賢治はヒドリと書いているのだから、他人が勝手に変えず、そのままにすべきだ。

駁論者F :十分な根拠に立って書き誤りと判定されたものは、世に出すときに正しく改めなければならない。さもなければ、賢治の真意は世間に誤って伝えられ、あるいは混乱を呼び、(ちょうどこの問答のような)無用の議論や無用の解釈を生んだりもするのだ。〔満場苦笑〕

論難者G :な、な、何が故に、「ヒデリにケガチなし」という、昔からの諺をないがしろにするのか。

駁論者G :まあ、まあ、落ち着きたまえ。すこし詳しく話してあげよう。いかにもその諺は大局的には正しい。手近な百科事典の「日照り」や「干魃」の項目には、「日本には古来『日照りに不作なし』という諺があり、これは稲作では雪解け水なども期待できるから、多照の年はむしろ米の豊作になることが多いことをいったものである(根本順吉)」とか、「日本は周囲が海であり、比較的湿潤な気候であるので、干魃の年は局地的にはひどい所があっても、イネなどは全般的には豊作な所が多くこのため『日照りに不作なし』などといわれる。(安藤隆夫)」などと、説かれている(『スーパー・ニッポニカ2002』)。しかし、この諺は夏の冷害がもっとも恐ろしい東北地方全体とか岩手県全体の作況についてなら、ほぼ当たっているであろうが、もっと狭い個々の範囲・個々の水田についてまで一概に適用できないのは、上記安藤氏の「局地的にはひどい所があっても」という留保に見られる通りだ。それに、当面の問題は一般論ではなく、賢治が旱魃・旱害をどう感じ、どう受けとっていたかではないか。そして、それは、彼が書き遺した多くの作品から、すでに一目瞭然ではないか。ここに、「ヒドリ=ヒデマ取リ」説を言い出された当のお方が自説を主張するために書かれた文章(「イーハトーブ短信」12号所収)があるが、この中に聞き書き引用されている篤農家の古老の言葉にさえも「田に水を引くことの苦労は毎年のことだが、日照りの時の苦労は格別で夜もろくろく眠らず水口番をすることが多かった。だから百姓同士の水引き喧嘩が絶えなかった。思い余って人が総出で神社に神楽を奉納して雨乞い祈願後に御神酒を頂いたことなどは忘れてはいない」という箇所があることを指摘しておこう。


以上

(なお、「ヒドリ」は「ヒトリ=一人」の誤記であるという意見につきましては、

http://www.kenji.ne.jp/why/review/review323.html

 に載せていただいた拙文をご参照いただければ幸いです。入沢追記)

雨ニモマケズ手帳

2014年09月14日 | (転載・記事)  総 合
宮沢賢治が亡くなった翌年、1934年2月16日に「雨ニモマケズ手帳」が

見つかっている。手帳は1931年秋、賢治が使用していたとされていて、

その手帳に載っていた未発表の詩が「雨ニモマケズ」ということです。



〔雨にも負けず〕 宮澤賢治

雨にも負けず 風にも負けず

雪にも夏の暑さにも負けぬ 丈夫な体を持ち

慾は無く 決して瞋らず いつも静かに笑っている

一日に玄米四合と 味噌と少しの野菜を食べ

あらゆることを 自分を勘定に入れずに

よく 見聞きし 分かり そして忘れず

野原の松の林の蔭の 小さな萓ぶきの小屋にいて

東に病気の子供あれば 行って看病してやり

西に疲れた母あれば 行ってその稲の朿を負い

南に死にそうな人あれば 行って恐がらなくても良いと言い

北に喧嘩や訴訟があれば 詰まらないから止めろと言い

ヒドリの時は涙を流し 寒さの夏はオロオロ歩き

みんなに木偶の棒と呼ばれ

誉められもせず 苦にもされず

そういうモノに 私はなりたい


南無無辺行菩薩

南無上行菩薩

南無多宝如来

南無妙法蓮華経

南無釈迦牟尼仏

南無浄行菩薩

南無安立行菩薩



下記・原文は、インターネット図書館「青空文庫」でお借りし、再現したものです。 (http://www.aozora.gr.jp/)



〔雨ニモマケズ〕 宮澤賢治



雨ニモマケズ

風ニモマケズ

雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ

丈夫ナカラダヲモチ

慾ハナク

決シテ瞋ラズ

イツモシヅカニワラッテヰル

一日ニ玄米四合ト

味噌ト少シノ野菜ヲタベ

アラユルコトヲ

ジブンヲカンジョウニ入レズニ

ヨクミキキシワカリ

ソシテワスレズ

野原ノ松ノ林ノ蔭ノ

小サナ萓ブキノ小屋ニヰテ

東ニ病気ノコドモアレバ

行ッテ看病シテヤリ

西ニツカレタ母アレバ

行ッテソノ稲ノ朿ヲ負ヒ

南ニ死ニサウナ人アレバ

行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ

北ニケンクヮヤソショウガアレバ

ツマラナイカラヤメロトイヒ

ヒドリノトキハナミダヲナガシ

サムサノナツハオロオロアルキ

ミンナニデクノボートヨバレ

ホメラレモセズ

クニモサレズ

サウイフモノニ

ワタシハナリタイ



南無無辺行菩薩

南無上行菩薩

南無多宝如来

南無妙法蓮華経

南無釈迦牟尼仏

南無浄行菩薩

南無安立行菩薩






雨ニモマケズが記された手帳は1931年秋、賢治が使用していたとされる。

宮澤賢治は1933年に亡くなっています。

その翌年、1934年2月16日に遺品の中から「手帳」が見つかります。

この手帳に書かれた詩に因んで「雨ニモマケズ手帳」と呼ばれます。

手帳が見つかった場所は、仕事で持ち歩いたトランクの中といいます。



さて、「雨ニモマケズ」の詩ですが、

宮澤賢治はこの詩を世に発表する気持ちがあったのでしょうか。

私には賢治が自分を律するつもりの「詩」だったように思えます。

当時、賢治の仕事は肥料用の石灰を販売する営業マンだったとのこと。

営業で各地を転々とするなかで「雨ニモマケズ」は生れたのでしょう。



営業の仕事は、雨の日も・雪の日も・嵐の中も顧客開拓に歩きます。

農家の仕事も、雨の日も・雪の日も・嵐の中も畑を視てまわります。

賢治が己と顧客の農民の暮しを重ね合わせたのは自然の成行きかも。



営業の仕事は何ごとも顧客大事と、欲ばらず・怒らず・笑顔でいる。

何かあれば自分のことは後回しで真っ先に飛び出して手伝いをする。

荷降ろしを手伝い・病人を見舞いして、こま鼠のように動きまわる。



それでいて用が済めば見向きされなくてもニコニコしているのです。

ヒドリの仕事もしただろうし、オロオロ歩いた事もあったでしょう。

農業は厳しい仕事だけど、賢治の仕事も畑仕事に劣らず厳しかった。



泣きたい時もあっただろうし、怒鳴りたい時もあったかも知れない。

そうなんだよ。自分は菩薩行をしているんだと、心に決めたのかも。

苦労を乗越えてこそ、人は菩薩の悠然たる境地に立てるのだもの…。



愚痴り・泣き言をいう賢治なら、詩人では有り得なかったでしょう。

悪口言ったり・責任転嫁したりする詩人なんて、在り得ませんもの。

詩人も菩薩も、言い訳せず・全ての責任をとる人の異名なのですぉ。





(追記)

宮沢賢治の詩に「ヒドリ」のフレーズが観られます。

この部分、私は何の疑問も持たずに「ヒデリ」で覚えていました。

原文はじつに「ヒドリ」だったと言うのです。

だれが、こんな酷い不躾な勝手をしたのでしょうか。

詩人であれば、こんな振舞いに及ぶ筈がありません。



原文をイジルなら、いじった事実を捕捉に付け足すべきです。

この事実を知って、私には詩人の不在が感じられてなりません。

もっとも、原詩がイジラレタ事実を知らない人は、仕方ありませんね。



そこで私は、「ヒドリ」が「ヒデリ」に変えられた過程を歩きました。

その結果報告については、新たな記事にまとめたいと思います。




私には宮澤賢治の深いふかい思いが切り捨てられていたように思えます。

それで、「ヒドリ」の題で次のメッセに綴って載せました。

「古池や」より古い発句

2014年09月07日 | (転載・記事)  総 合
芭蕉が詠んだ「芭蕉発句集」に探しました。

(北村季吟に学んだころの句)

餅雪をしら糸となす柳かな 
花にあかぬ歎やこちの歌ぶくろ 
うかれける人や初瀬の山桜
岩つゝぢ染る泪やほととぎす 
浪の花と雪もや水のかへり花
かつら男すますなりけり雨の月
うち山や外様しらずの花盛
五月雨も瀬ぶみ尋ねぬ見馴河
春立とわらはも知るやかざり縄 
きても見よ甚兵衛が羽織花ころも 
女夫鹿や毛に毛が揃ふて毛むつかし

(貞徳流の芭蕉)

我が黒髪撫でつけにして頭巾かな
春やこし年や行けん小晦日
町医者や屋敷かたより駒迎ひ

(談林風の芭蕉)

都出てけふみかのはら痛むらし 
富士の風や扇にのせて江戸土産
百里来たりほどは雲井の下涼み
捧げたり二月中旬初茄子


枯枝に烏のとまりたるや秋の暮

春立つや新年古き米五升
るすに来て梅さへよその垣穂かな
もろこしの俳諧とはんとぶ胡蝶

(野ざらし紀行)

野ざらしを心に風のしむ身かな

名月や池をめぐりてよもすがら

きみ火をたけよき物見せむ雪まるげ 

月はやし梢は雨を持ながら

寺にねてまことがほなる月見かな


こうして並べてみると、芭蕉に天性の才を感じます。
それにしても、芭蕉が学んだ師の色もうかがえます。
「古池」の句に見る芭蕉らしさも次第に顕れています。

駄じゃれ・言葉遊び・諧謔からの脱却を目指す意味!
詠んだ句から、芭蕉の思いが窺われるなんて面白い!
芭蕉の特出した才能が開くには【庶民】こそ必要ね!!

芭蕉の計画

2014年09月07日 | (転載・記事)  総 合
生家の松尾家というのは有力な家柄とは云えなかったと思われます。
芭蕉の才能を見込まれたのでしょうか、早くから若殿に仕えている。
芭蕉は主筋の嫡男に仕え、その縁で俳諧連歌の道にも入っています。
若君の覚えも良くて、ゆくゆくは藩家老を夢見ていたことでしょう。
しかし、芭蕉二十三歳、仕えた嫡男は亡くなり仕官の道は途絶える。
そのとき、庶民の芭蕉に残された道が「俳諧連歌」だったのでしょう。

藤堂家を辞して京へ北村季吟を訪ねて俳諧連歌を本格的に学びます。
季吟は近江の医者の家柄ですが親子で幕府の歌学方となる人物です。
芭蕉の処女句集「貝おほひ」は季吟の元で修行中に編んだと思えます。
この「貝おほひ」を上野天満宮に奉納し、また、江戸で出版している。
前後して、北村季吟は「連歌俳諧」の秘伝書を芭蕉に伝授しています。
こうして芭蕉は宗匠になり・職業俳諧師の道を歩き始めたのでした。

松永貞徳、西山宗因、宗因の弟子・井原西鶴、北村季吟…人脈作り、
才能を遺憾なく発揮する芭蕉を支援する有力者も増えていきました。
「桃青門弟独吟二十歌仙」「野ざらし紀行」… 芭蕉の計画は順調です。
名声が高まるにつれて、芭蕉の門下も勢いを増していったでしょう。
だが、芭蕉の計画は敷かれた軌道を進むだけでは飽き足らなかった。
「古池や蛙飛こむ水のおと」に至る…が芭蕉の計画通りなのかしら!?

芭蕉は生きている

2014年09月07日 | (転載・記事)  総 合
>元禄七年初冬、芭蕉は大坂で客死した。江戸深川の芭蕉庵で草の戸の句を詠み、『おくのほそ道』の旅へ出発してから五年半後のことだった。

* 旅に病(やん)で夢は枯野をかけ廻(めぐ)る  芭蕉


>散文的な言い方をすれば、枯野を駆け回る夢を見たということだろう。
>ところが、「夢は枯野をかけ廻る」といえば、夢は火の玉のような塊となり、吹きすさぶ木枯しとなって枯野を疾走する。

長谷川櫂さんは初めに「古池や」の句で「一物仕立て」を否定していた。
そして替りに「取り合わせ」の良さを高らかに謳いあげていたのでした。
それは私の「俳句はどんな読み方も許される」との信念にも対立した。

それが途中からトーンダウンして「一物仕立て」を肯定し始めました。
現代人に俳句というものは、それほど判りにくくなって伝わっていた。
「一物仕立て」と云うも「取り合わせ」と云うも全ては心で読むものです。

それさえ判ってたら、櫂さんは回り道をすることはありませんでした。
櫂さんの著の最後の句「旅に病で」では「心」のみに触れているようです。
最早「一物仕立て」だの「取り合わせ」だのと言えなくなったのは明らか。

それでも猶、私・於多福姉は長谷川櫂さんに心から感謝しているのです。
私は、松尾芭蕉をこれまで学んだ事がなかったのですから感謝は当然ね。
私に備わっていたのは「心」だけ、論理は自然流でしか有りませんもの。

心を知った長谷川櫂さんが読んだ俳句はキッと素晴らしいと存じます。
私の読みかたなんて恥かしくて載せられたものではありませんけど…。
ともあれここは於多福姉のHPですし、一生懸命に綴らせて戴きます。

松尾芭蕉の最後の旅は伊賀から京・木津を抜けて大和で泊り、あくる日暗り峠を越えて大坂へ入った。
暗り峠を下るときは体力の限界で、籠を頼んでやっとのことで現在の生玉神社の辺りに着いたようです。
そんな辛い旅の途中で詠まれたのがこの句だったのではないでしょうか。

蕉門は、じつに松尾芭蕉が先頭に立って句詠みの旅を続けたと判ります。

* 病鳫の夜さむに落て旅ねかな

新生蕉門は「病鳫」の句で出発し「旅に病で」の句で第一陣の旅を終えます。
「病鳫」で自ら先頭に立つと宣言した芭蕉の一応の役目はここまででしょう。
雁の「リーダーは各地をかけ廻る旅の中で死の床に着く」との宣言でもある。

* 旅に病で夢は枯野をかけ廻る

私は俳句に全てを懸けた芭蕉の深い想いを「旅に病」の句から読み取るのみ。
蕉門俳句の魂たる芭蕉は・愈愈これからの決意でかけ廻ると宣言している。
新生蕉門のリーダーを引き継ぐ方程式は「病鳫」で芭蕉が示したとおりです。

身が滅んだ後も・芭蕉門のリーダーたる魂は永遠に駈けて駈けて駈け廻る。
それでどこをかけ廻るのでしょう、すなわち・句には枯野と示されてある。
ここで枯野を心の世界に限ってはならない。現実の枯野と読むべきですね。

旅に病で/夢は枯野をかけ廻る

この句も「一物仕立て」或いは「取り合わせ」と読むのは自由です。
長旅に傷ついた体なれど、心は衰えるものではなく、これからです。(一物仕立て)
体は永遠ではないが、魂魄は自然に宿り・蛙に宿り、皆と共にある。(取り合わせ)