Senkaku Library 尖閣ライブラリー

尖閣諸島は日本の領土である動かぬ証拠

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古賀辰四郎による開拓が始まる

2012-11-18 | 魚釣島の歴史
另外1896年8月,日本政府內務省以免除使用費,期限30年為條件,核准將魚釣島和黃尾嶼租借給古賀辰四郎。古賀辰四郎在釣魚台建造小型碼頭、海產加工工廠、宿舍等建築物,並種植芭蕉、甘蔗、甘藷等 農作物,
1909年向內務省報告移民有90戶,共248人,開墾面積有六十多畝,11月古賀辰四郎獲得明治政府頒贈藍綬褒章表揚。


明治17(1884)年頃から尖閣諸島で漁業等に従事していた沖縄県在住の民間人、古賀氏から国有地借用願が出され、明治29(1896)年に、明治政府は、4島を30年の期限で古賀辰四郎に貸与することを許可した。古賀辰四郎氏は、この政府の許可に基づいて、尖閣諸島に移民を送り、羽毛の採集、鰹節の製造、珊瑚の採集、牧畜、缶詰製造、憐鉱鳥糞の採掘等の事業を経営した。

このように、明治政府が尖閣諸島の利用について、個人に許可を与え、許可を受けた者がこれに基づいて同諸島において公然と事業活動を行うことができたという事実は、同諸島に対する日本の有効な支配を示すものである。


当時の琉球新報に掲載された、無人島への出稼ぎを募集する古賀商店の広告



古賀は、大勢の人々を移住させて、魚釣島、久場島などの開拓を開始した。

いかにして移民を安全に生存させるか、食糧の補給はどうするか、病気災難に対する救護の手段など、課題は山積していた。
そこで明治33年、古賀は上京して東京帝国大学の理学博士に教えを乞い、理学士、宮島幹乃介を紹介される。
宮島は沖縄師範学校の黒岩恒教諭とともに、尖閣に上陸して現地調査を行う。
そのレポートが、明治33年の『地学雑誌』に連載されている。

宮島、黒岩からの助言を受け、古賀辰四郎は尖閣の開発の基本様式を定める。

1.鳥類漁獲の乱獲を戒め、繁殖方法を講じ、種族断絶の憂いなからしむこと。
2.家屋を建て、移住者の安息を図ること。
3.船着きの安全と海陸運搬の利便を図るため、船の碇(いかり)つなぎ所を設けること。
4.久場島には河泉のよるべ無きが故に、雨水蓄槽を設けること。
5.道路を開墾し、かねて汚物排除の方法、その他、衛生的設備を講ずること。


この方式に基づき、古賀は工事を行ってゆく。










「尖閣列島行きの子供上陸す」の記事(1908年5月13日 琉球新報)



「古賀辰四郎氏の経営せる尖閣列島へ移住すへき十一人の小供は福島縣安積郡日和田より熊田平二郎氏が連れ来りしが其の小供等の年齢を聞くに十一歳より七歳迄なりと云ふ。」


1909年には、内務省に寄せられた報告によると、尖閣諸島への移民は90世帯、248名に達した。


沖縄県や海軍により、尖閣諸島の正確な測量が実施される

2012-11-18 | 魚釣島の歴史
<沖縄県臨時土地整理事務局による測量>

1902年12月,沖繩縣臨時土地整理事務局對釣魚台列嶼實施實地測量,製作各島的正確縮尺圖。
1902年12月、沖縄県臨時土地整理事務局が、尖閣諸島の測量を実施し、各島の正確な縮尺図を作成した。



<日本海軍による測量>

1915、1917年 日本海軍水路部;1931年 沖繩營林署對釣魚台進行測量工作,日本農林省資源調查團赴該列嶼勘查,日本氣象局在釣魚台建設測候所。

1915年・1917年には日本海軍が、1931年には沖縄営林署が、魚釣島の測量を実施している。
日本の農林省の資源調査団は、尖閣諸島の調査を行っている。
気象局も、魚釣島に測候所を建設している。

日本水路誌 第六巻 南西諸島・台湾及澎湖列島(1919年7月 海軍省水路部作成)


<沖縄県統計書>

1919年 沖繩縣統計書將釣魚台登記在沖繩縣八重山郡石垣村下,
1919年(大正8年)、沖縄県統計書によると、魚釣島が沖縄県八重山郡石垣村下と登記されている。

沖縄県統計書(1919年・大正8年)


尖閣諸島の部分の拡大図



面積も記載されている



<大日本帝国 陸地測量部による測量>

1933年 大日本帝國陸地測量部繪製「吐噶喇及尖閣群島地圖」
1933年、大日本帝国陸地測量部による「トカラ及尖閣群島」



1936年、日本陸軍參謀本部陸地測量部繪製魚釣島、黃尾嶼地圖。
1936年、陸軍参謀本部陸地測量部により測量が行われた。

魚釣島の拡大図



明治時代の『地学雑誌』に尖閣諸島探検記掲載

2012-11-18 | 魚釣島の歴史
1900年岩恒和宮嶋幹之助登島調查,其報告登載於地學雜誌。

1900(明治33)年、黒岩恒と宮島幹之助が尖閣諸島に上陸し、調査を行った。その報告が、『地学雑誌』に「探険記事」として掲載されている。

 ※『地学雑誌』第140巻 尖閣列島探検記事 - 黒岩 恒
  『地学雑誌』第141巻 尖閣列島探検記事承前 - 黒岩 恒
  『地学雑誌』第142巻 沖縄県無人島探検談 - 宮嶋幹之助
  『地学雑誌』第143巻 黄尾嶼 - 宮嶋幹之助
  『地学雑誌』第144巻 黄尾嶼 - 宮嶋幹之助
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尖閣領有を閣議決定、沖縄県に編入

2012-11-18 | 魚釣島の歴史
<古賀辰四郎による開拓>

「尖閣諸島は日本固有の領土である」(茂木弘道・著)
(転載:史実を世界に発信する会HPより)
http://hassin.org/01/literature/takeshimasenkakuislands/1389

明治17(1884)年、福岡出身の古賀辰四郎は、尖閣諸島を巡航し、黄尾嶼(こうびしゅ)に上陸した。以後、石垣島を根拠地として、尖閣諸島でアホウドリ羽毛の採取や魚介類の採取に従事した。

明治18(1885)年、古賀辰四郎は、黄尾嶼の開拓許可を沖縄県令に願い出る。

明治18(1885)年1月、内務省は沖縄県に対し、「沖縄県と清国福州の間に散在する無人島」、すなわち尖閣諸島の調査を命じた。

沖縄県令 西村捨三は前記大城永保の調査に基づく報告を、県役人大沢兵吾より受け、同年9月22日、内務卿あてに「沖縄に属することにしても支障ないと考えるが、なお実地調査を行いたい」旨、上申した。同時に、大沢兵吾にさらなる実地調査を命じた。

同年10月、大沢は警部補他3名を伴い、出雲丸に乗り込み、実地調査を行った。
11月4日に詳細な報告書を提出した(出雲丸船長も報告書を提出している)。
これに基づき、西村県令は11月5日、再度、沖縄県への組み入れのための国標設置を、内務卿宛てに上申した。


明治17(1884)年,来自福岡的古賀辰四郎巡航此列嶼,在黄尾嶼上陸,之后,他以石垣島为根据地,在这些島上采取信天翁的羽毛和鱼貝類,18(1885)年,他向冲绳县令申請开发黄尾嶼的許可。

明治18(1885)年1月,内务省対沖縄県发出調査「沖縄県和清国福州之間散在的无人島」的命令,沖縄県令西村舍三将从石泽兵吾手中接到大城久保的調査報告后, 同年9月22日, 西村向内務卿表示, 将島嶼应归属于冲绳是没有問題的, 但还有需要遂行実地調査, 同时命令石泽兵吾到島嶼作実地調査。同年10月, 石泽在三位警部補的陪同之下, 坐着出云号船遂行実地調査, 在11月4日提出了詳細的報告, 出云号船長也提出了報告, 以这些資料为基础, 西村在11月5日再度向内務卿上申島嶼并入沖縄県建立国標的許可。

In 1884, Koga Tatsushiro from Fukuoka, Japan sailed around the Senkaku Islands and
landed on the island of Koubishu (known as Huangwei Yu Island by China), now known
as Kuba Island by Japan.

Shortly after his initial encounter, Koga began harvesting the albatross feathers, fish, and shells of the Senkaku Islands using Ishigaki Island as his base.

And, in 1885, Koga sent a letter to the governor of Okinawa requesting permission to
develop the island of Koubishu.

In January 1885, the Ministry of Home Affairs of Meiji Government ordered Okinawa
prefecture to conduct surveys on“the uninhabited islands scattered between Okinawa,
Japan and Fuzhou, Fujian, China,”that is, the Senkaku Islands.

After examining Osawa‟s reports made to Okinawa prefecture that were based on shiro‟s
aforementioned survey findings, Sutezo Nishimura, the then-governor of Okinawa, sent a letter on September 22 of that year to the minister of Home Affairs, stating that though the incorporation of the Senkaku Islands into the territory of Okinawa would not cause problems, he wished to conduct more field surveys.

Meanwhile, Nishimura ordered Osawa to conduct further field surveys.
In October of 1885, Osawa boarded the Izumomaru with an assistant police inspector and three other officials to oversee further field surveys.

On November 4, Osawa submitted detailed reports to Nishimura. In addition, the aptain of the Izumomaru also submitted his own report. Based on the reports, governor ishimura sent a second letter, dated November 5, to the minister of Home Affairs proposing the erection of national territorial markers on the islands to indicate their incorporation by Okinawa prefecture.



この時は、外務卿、井上馨の判断により、清国政府の猜疑を招く恐れがあるので、実地調査と報告のみにとどめ、国標建設は見送っている。
しかしそれは、清国の支配が尖閣諸島に及んでいたためではなく、清国を刺激するのを恐れた判断であった。



該縣令乃派遣石澤兵吾等五名官員搭乘大阪商船會社的出雲丸(輪),赴釣魚台實地勘查後提出「釣魚島外二山鳥嶼巡視取調 概略」報告書,及出雲丸船長林鶴松的「魚釣、久場、久米赤山鳥回航報告書」。

經數次調查確認釣魚台上面毫無界碑,官廳或居民等清朝統治的跡象認定為無主之地。
保釣人士引用1885年日本駁回沖繩縣在釣魚台設立國標的公文,宣稱是日本竊取中國領土的鐵證。其實這份資料是日本學者在尖閣諸島問題所提出,也不是什麼秘密,日本在1890年和1893年也駁回沖繩縣申請。

1894年以前日本對釣魚台始終在調查階段,直到1895年1月14日的日本內閣會議才決定「內務大臣請議,位於沖繩縣下八重山 群島西北,稱久場島、魚釣島等無人島,認應為沖繩縣所轄,在許可該縣知事之申請,建設標杭」正式將釣魚台劃入琉球所轄之日本領土之內。


1894年まで、日本は魚釣島の調査を続けてきた。
明治23(1890)年1月13日、尖閣付近の漁業が盛んに行われるようになってきたので、沖縄県知事から、水産取り締まりの必要もあり、八重山島役所の所轄に定めたいので、国標建設を行いたいと、内務大臣宛の上申書が提出された。

明治27(1894)年12月27日、内務大臣・外務大臣が協議の上、国標建設の件を閣議に提出することになり、尖閣諸島の日本領有を決定した。

明治28(1895)年1月14日の閣議で正式決定される。日清戦争終結の2カ月前のことであった。