Senkaku Library 尖閣ライブラリー

尖閣諸島は日本の領土である動かぬ証拠

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1947~1954年の中国・台湾の地図

2012-11-27 | 近代中国の出版物
1947年、1948年の台湾の地図には、魚釣島は記載されていない。


1947年臺灣地圖沒釣魚台





1948年中國亞光輿地學社台灣地圖




1951年、台湾省文献委員会が編纂した『台湾省通志稿』では、「台湾の最北端は彭佳嶼」と記載されている。
1951年,台灣省文獻委員會編輯《台灣省通志稿》,記載台灣省最北端為彭佳嶼。






中国史地図表編纂社金立煌発行の『台湾分県詳図』にも、釣魚台の記載はない。

中國史地圖表編纂社 金立煌發行的臺灣分縣詳圖無釣魚台





光華輿地学社編纂の『中華人民共和国新地図台湾省』にも、魚釣島は記載されていない。

光華輿地學社編制中華人民共和國新地圖台灣省





これは、1950年代初期に中国農村青年社から発行された『印贈的台湾地図』。
やはり魚釣島は記載されていない。

50年代初期中國農村青年社印贈的台灣地圖






下は、1952年に中国の小学校5・6年生で使われていた地理の教科書である。
台湾の地図に、魚釣島は記載されていない。

1952年中國使用的高級小學 (五、六年級) 地理課本,台灣地圖無釣魚台。





中国亜光輿地学社発行の「中華人民共和国分省地図」にも、魚釣島は記載されていない。

中國亞光輿地學社發行中華人民共和國分省地圖沒釣魚台
中國亞光輿地學社發行中華人民共和國分省精圖台灣省





こちらは、1954年10月に遼寧人民出版社が出版した台湾の地図。やはり魚釣島は記載されていない。

1954年10月遼寧人民出版社出版的台灣地圖





中国中華書局が12月に発行した台湾省の地図。魚釣島は記載されていない。
中國中華書局於12月發行台灣省地圖








北京地圖出版社中華人民共和國分省地圖台灣省





結論:
1948年~1950年代の中国発行の地図では、台湾省に魚釣島はまったく含まれていない。
学校の地理の教科書にすら、記載されていない。
魚釣島が記載された台湾地図を見つけることができない。



中華民国が尖閣諸島を日本領と認めている感謝状

2012-11-27 | 魚釣島の歴史
【不願面對的真相】
對中國最大的致命傷是從來沒有對日本取得釣魚台的行為有任何異議,連最基本的抗議都沒有。而且還公開承認釣魚台屬於琉球:戰後也沒有主張釣魚台是中國的領土,要求日本歸還。


中国にとって致命傷は、日本が魚釣島を取得した時に、なんら異議をとなえなかったこと。基本的な抗議もしてこなかったことだ。
そればかりか、魚釣島は琉球の一部だと承認していた証拠がある。
戦後も魚釣島は中国領だと、中国は主張してこなかったのに、今になって日本に「魚釣島を返せ」と要求している。

古賀歿後其子古賀善次繼承為「島主」的翌年(1919)冬天,有一艘福建的漁船遭遇暴風雨漂流到釣魚島擱淺向島民求救。在古賀善次等人熱心營救之下,這艘遇難漁船「金合號」的船主兼船長郭合順等31名船員,半個月後被護送經由台灣平安回到福建。翌年(1920)5月,中華民國政府為了對於善意營救海難的義舉表示感謝,由駐長崎領事馮冕代表政府致贈感謝狀給古賀善次等七個人。感謝狀清清楚楚地寫明海難發生場所的釣魚島是「日本帝國沖繩縣八重山郡尖閣列島」。感謝狀用中文寫的,全文如下:

古賀辰四郎なきあとは、その子息である古賀善次が後を継ぎ、魚釣島の主となっていた。
1919(大正8)年冬、福建省から出港した一隻の漁船が暴風雨のため漂流し、魚釣島に漂着して、住民に助けを求めた。
古賀善次らは熱心に彼らを介抱し、遭難漁船「金合号」の船長と船員31名は、半年後に台湾を経由して、無事に福建省に帰還することができた。

翌年、1920年5月、中華民国政府は古賀らの海難救助に感謝し、長崎領事が政府の代表として、古賀善次ら7名の住民に感謝状を贈った。
その感謝状には、海難が発生した場所である魚釣島を「日本帝国沖縄県八重山郡尖閣列島」と記載されている。

当時の石垣村の豊川善佐氏村長へ贈られた感謝状



石垣村の玉代勢孫伴氏(後の助役)に贈られた感謝状

(石垣市立八重山博物館所蔵)

<感謝状原文>

感謝狀中華民國八年冬,福建省惠安縣漁民郭合順等31人遭風遇難,
飄泊至日本帝國沖繩縣八重山郡尖閣列島內和洋島(按即釣魚島)
承蒙日本帝國八重山郡石垣村雇玉代勢孫伴君熱心救護使得生還故國,
洵屬救災恤鄰當仁不讓深堪感佩,特贈斯狀以表謝忱。

中華民國駐長崎領事馮冕(印)中華民國9年5月20日
(公印)(蓋在「9年」上)。
可參考:北京政府駐外使領人員年表(1912∼1928)


古賀善次氏の証言

(以下、『現代』(講談社)第6巻第6号(1972年6月)142-147頁より転載)

魚釣島の所有者古賀善次氏は、
「それに、中国もかつてははっきりと日本領土と認めているんです。事実もありますよ。
大正八年、中国福建省の漁船が、尖閣列沖合いで難破しました。
そのとき、たまたま私の船がそれを発見し、難破船と三十一人の乗組員を助けて石垣島へつれてきて、手厚い保護をしました。

私だけでなく、石垣の人たちも彼等を親切にもてなし、修理をおえた船とともに中国へ帰してやったのです。

翌年ですよ、中国政府から私をはじめ石垣の関係者に感謝状が送られてきましてね。
その宛名は、日本帝国沖縄県八重山郡島尖閣列島でしたよ。いま中国がいっている魚釣台ではなく、ちゃんと尖閣列島になっています。個人からの手紙ではありません。政府としての感謝状なんです。
ええ、いまでも保存してありますよ。」


(転載おわり)

感謝狀中華民國八年冬,福建省惠安縣漁民郭合順等31人遭風遇難,飄泊至日本帝國沖繩縣八重山郡尖閣列島內和洋島(按即釣魚島)承蒙日本帝國八重山郡石垣村雇玉代勢孫伴君熱心救護使得生還故國,洵屬救災恤鄰當仁不讓深堪感佩,特贈斯狀以表謝忱。中華民國駐長崎領事馮冕(印)中華民國9年5月20日(公印)(蓋在「9年」上)。

記事一覧

2012-11-27 | その他

序文
下関条約
通過しただけで「自国領」?
海図(航海図)と領土領海は別である
『使琉球録』の新解釈 尖閣は琉球人の生活圏だった
偽物の西太后詔書
『日本一鑑』「小東の小嶼」は「台湾の附属島嶼」ではなく、「小東洋(日本近海の海)の小島」
籌海図編
『坤輿全図(こんよぜんず)』に対する反論
清朝の台湾地図には、釣魚島はない
『三国通覧図説』の塗り絵は、矛盾だらけ
琉球西端は姑米山と赤嶼の間か ~『重編使琉球録』
台湾の地図には、釣魚島はずっと記載されてこなかった
日本統治時代の台湾領に、魚釣島は含まれていなかった
カイロ会談に参加したチャーチルすら否定する「カイロ宣言」
台湾との漁業権問題
「海溝」で領土を決めると、こんなことになる
1947~1954年の中国・台湾の地図
「魚釣島は日本のもの」と報じた人民日報
1955~1962の中国・台湾の地図
世界地図集第一冊 東亜諸国(1965年)
書き換えられた中学教科書(1970~1972年)
突然動き始めた国境線


<魚釣島の歴史>
明治12年 魚釣島が日本地図に記載される
尖閣領有を閣議決定、沖縄県に編入
明治時代の『地学雑誌』に尖閣諸島探検記掲載
沖縄県や海軍により、尖閣諸島の正確な測量が実施される
古賀辰四郎による開拓が始まる
古賀村の人々
台湾は、南小島の難破船撤去のため、琉球政府に上陸申請を出していた!
米国占領下の尖閣諸島
アメリカによる沖縄統治
米琉球政府統治下の尖閣諸島
中国作成の機密扱い地図(1969年)
尖閣近海で地下資源発見
沖縄返還と尖閣諸島
ニクソン・キッシンジャーも日本領と認める尖閣諸島
中華民国が尖閣諸島を日本領と認めている感謝状