Senkaku Library 尖閣ライブラリー

尖閣諸島は日本の領土である動かぬ証拠

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『三国通覧図説』の塗り絵は、矛盾だらけ

2012-11-16 | 中国側の古文書・地図
康熙年間的中山傳信錄中,往來中國福州與琉球那霸的航海圖根本沒有上色,保釣人士卻說那將釣魚台與中國塗成同色。

中国と琉球の航路図である『中山伝信録』では、色は塗り分けられていない。
この『中山伝信録』をもとに、後に描かれた、『三国通覧図説』では、魚釣島が中国と同じ赤色に塗られていることを根拠に、中国は「尖閣は中国の領土だった」と主張している。
赤色に塗られたのは、『三国通覧図説』からのようだ。






『三国通覧図説』 (1785年)


保釣人士主張日本《三國通覽圖說(1785)》將釣魚台、黃尾山、赤尾山塗成跟中國相同的紅色,所以認定屬於中國。可是臺灣1684年屬於中國,卻用了與中國(紅)不朝鮮相同的黃色,而臺灣轄內的花瓶嶼和彭佳嶼又以中國的紅色標示,中國又跟俄國同樣為紅色。另外舊滿州(色)跟日本同色,北海道(褐色)跟琉球同色。

尖閣諸島と中国が、同じ赤い色に塗り分けられていることから、中国が「釣魚島は中国領土」の根拠として、たびたび出してくる地図。

しかし、よくよく見てほしい。
中国と同じ赤い色に塗られているのは、魚釣島(釣魚台)、黃尾山(現・久場島)、赤尾山(現・大正島)だけではない。
当時、台湾の領土だった花瓶嶼と彭佳嶼も、赤く塗られている。

そして、台湾は1684年に清朝の版図に組み入れられたので、この地図が描かれた1785年は、すでに清朝の版図だったはずだが、なぜか中国と台湾は別の国として、違う色に塗り分けられている。
つまりこの地図の作者の領土意識というのは、その程度だということなのではないだろうか。

台湾と中国を違う国と混同していた。
なのに、台湾の附属の島だけは、中国と同じ色に塗っていた。
相当に「アバウト」な塗り分けだ。

たまたま、尖閣諸島を赤く塗ってくれたために、中国は大喜びして、この地図を何かと引き合いに出す。
台湾の色や、花瓶嶼と彭佳嶼の色に、かなり矛盾があることについては、あまり興味がないようだ。

この地図を描いたのは、林子平(はやししへい)という江戸時代の日本人。
上にある『中山伝信録』の図を見ながら、それを真似て書いたことを、自分で記録に残している。
一応は地理学者だったそうだが、あまり諸外国の領土については意識せず、色分けしたように思える。






『坤輿全図(こんよぜんず)』に対する反論

2012-11-16 | 中国側の古文書・地図

坤輿全図(こんよぜんず)
北京で刊行された大型の両半球世界地図。作者F.フェルビーストはイエズス会士であり、1659年に中国に渡りキリスト教伝道に努める一方、欽天監(天文台長)を勤めるなど、天文地理の分野でも活躍した。

この『坤輿全図』(1767年)では、魚釣島は中国領土になっていると中国は主張するが(→人民日報 2012年10月12日)、沖縄付近を拡大してみると、




どこに釣魚島が中国と表示されているのか?





1767年乾隆皇帝欽命繪制之《坤輿全圖》把釣魚台標示為中國?我查了原圖再看其他保釣人士的說明才知道他們認為“好魚須”即“釣魚嶼”所以也算是納入版圖,那地圖上其他地方也算納入版圖嗎?而且宜蘭縣是清嘉慶15年(1810)收入清朝版圖,嘉慶17年(1812),才正式設噶瑪蘭廳治理。

宜蘭県はもともと海賊の拠点になっており、清朝に行政区として組み入れられたのは1810年、清朝の版図になったのは1812年である。
『坤輿全図』が描かれたのは、それよりも43年も前だ。
『坤輿全図』で尖閣諸島が中国の領土として描かれているというが、台湾の宜蘭県でさえ清朝版図ではなかったのに、なぜその附属諸島(と中国は主張する)である魚釣島が清朝の領土だといえるのか?


籌海図編

2012-11-14 | 中国側の古文書・地図


明朝蕭崇業使琉球錄中琉球過海圖除了釣魚台也畫小琉球等島嶼。


籌海図編 1562年





這就是保釣團體宣稱釣魚台納入明朝版圖的鐵證,明朝浙江提督胡宗憲組織編纂的《籌海圖編》一書中的「沿海山沙圖」。可是裡面也有雞籠山(台灣),但明朝當時並未將台灣納入版圖啊!

中国側は、鄭若曽の『籌海図編』巻一の「福建沿海山沙図」をもち出して、その中に釣魚台などの見出されることをもって、これらが中国領の島嶼とみなされていたとされる。しかし、『籌海図編』のような沿海図は、自国の領土だけでなく、その付近にある島々や地域を含めるもので、ここに記載されているからといって、明朝の領土であったという解釈は成り立たない。




『日本一鑑』 「小東の小嶼」は「台湾の附属島嶼」ではなく、「小東洋(日本近海の海)の小島」

2012-11-14 | 中国側の古文書・地図
《地圖考證》(地図考証)


明朝鄭舜功「日本一鑑」根本就把小琉球(台灣)看成另一個國家大惠國。

『日本一鑑』は、1555年、倭寇対策のために明朝の浙江巡撫の命により日本に派遣された鄭舜功が、九州滞在3年の後に帰国して著作した書物である。同書の第三部に当る「日本一鑑桴海図経」に、中国の広東から日本の九州にいたる航路を説明した、「万里長歌」がある。その中に「或自梅花東山麓 鶏籠上開釣魚目」という一句があり、それに鄭自身が注釈を加えている。大意は福州の梅花所の東山から出航して、「小東島之鶏籠嶼」(台湾の基隆港外の小島)を目標に航海し、それより釣魚嶼に向うというのであるが、その注解文中に、 「梅花より澎湖の小東に渡る」、「釣魚嶼は小東の小嶼也」とある。


「尖閣は中国の領土」と主張する日本人学者、井上清氏は、『釣魚嶼の史的解明』の中で次のように述べている。
小東島の小嶼という記述を確認し小躍りしている。

一五 いくつかの補遺

 釣魚諸島が無主地でなく中国領であったということが確認されれば、いかなる「先占」論も一挙に全面的に崩壊する。(中略)私見をさらに補強する史料が、前記の雑誌『学粋』に出ている。それは、方豪という人の「『日本一鑑』和所記釣魚嶼」という論文である。
(中略)同書の第三部に当る「日本一鑑桴海図経」に、中国の広東から日本の九州にいたる航路を説明した、「万里長歌」がある。その中に「或自梅花東山麓 鶏籠上開釣魚目」という一句があり、それに鄭自身が注釈を加えている。大意は福州の梅花所の東山から出航して、「小東島之鶏籠嶼」(台湾の基隆港外の小島)を目標に航海し、それより釣魚嶼に向うというのであるが、その注解文中に、「梅花ヨリ澎湖ノ小東ニ渡ル」、「釣魚嶼ハ小東ノ小嶼也」とある。この当時は小東(台湾)には明朝の統治は現実には及んでおらず、基隆とその付近は海賊の巣になっていたとはいえ、領有権からいえば、台湾は古くからの中国領土であり、明朝の行政管轄では、福建省の管内に澎湖島があり、澎湖島巡検司が台湾をも管轄することになっていた。その台湾の付属の小島が釣魚嶼であると、鄭舜功は明記しているのである。釣魚島の中国領であることは、これによってもまったく明確である。こういう史料は、中国の歴史地理の専門家は、さらに多く発見できるにちがいない。

(井上清『釣魚嶼の史的解明』より)
(太字・赤字は筆者)



「小東」とは台湾のことであると、井上清氏は断定しているが、「小東」とは台湾のことではなく、マテオ・リッチが命名した日本の東方海中の「小東洋」という海域のことである可能性が高い。

マテオ・リッチが作成した「坤輿万国全図」(明、万暦三十年・1602年)という地図には、赤道よりやや北、現在のハワイ付近の海中に「大東洋」としるされ、赤道の南の大洋洲の海中に「寧海」と誌してあり、日本の東方海中に「小東洋」、ポルトガルの西方海中に「大西洋」、インド西方海中に「小西洋」と誌してある。小東洋とは西洋人の伝えた概念で、明代から清代に至るまで使われた概念である。

『日本一鑑』の著者である鄭舜功は中国人であり、日本に3年滞在したに過ぎない。
船の中で「小東洋の小嶼」(=日本近海の小島)という言葉を聞き、「小東」は「小琉球(台湾)」と同じ意味を表すと誤解してしまった可能性も指摘されている。




偽物の西太后詔書

2012-11-14 | 中国側の古文書・地図
如果發現命名、經過能作為領土依據,那世界各國紛紛根據古代海圖、遊記主張領土,最吃香的恐怕是西班牙、荷蘭..等探險風氣興盛的國家。而且在正史《後漢書》書中,可清楚記載了「羿請無死之藥於西王母,姮娥(嫦娥)竊之以奔月。」

如果這些白痴的邏輯成立,其實月球也是中國的固有領土,且登載於二千年前的後漢書。中國趕快為了美國侵犯中國固有領土,去跟美國開戰吧!
可笑的是慈禧太后賜釣魚台給盛宣懷的聖旨早就被拆穿一場騙局了,保釣人士居然還把它當寶貝!!


偽造された西太后詔書

【慈禧太后將釣魚台賞給盛宣懷的諭旨】




(以下、茂木弘道 「尖閣諸島は日本固有の領土である」より転載)


西太后の詔書は偽物と断定できる。光緒19年(1893年)清朝大官盛宣懐が釣魚島・黄尾嶼・赤尾嶼の三島へ薬草の海芙蓉を採取に赴き、その浄財を慈禧太后に進呈したところ、その薬効から、西太后はこの三島をその者に与えるとの詔書を下されたというのである。

この詔書が偽物である理由は、以下のとおりである。

赤嶼(せきしょ)は草一本生えない岩山であり、久場島や魚釣島はこの時期には古賀氏が開拓経営していたが、そのような採取をした中国人がいたなどとは全く言われていなかったし、また、薬草が算出された記録はない。

清国が当時、これらの島を自国領と見ていたのなら、明治初期から28年に至る間、度重なる日本側の探査、調査、地図上の日本領との記載、そして28年の領有にたいして何故まったく抗議がなされなかったのか。そのようなことはあり得ない。

この詔書は通例の形式ではない。10月とだけあり、日付がない。また、玉爾(ぎょくじ)も違っている。盛宣懐は光緒19年当時、詔書に記載されている「太常寺正」ではなかったことも確認されている。ニセ詔書作りにチョンボがあったということだ。残念ながら、これだけで100%捏造ものと結論づけられる。

この記述は、「清朝実録」「東華録」「東華統録」にも見当たらない。領地を与えておきながら記録に皆無というのは、ほとんどあり得ない。






『使琉球録』の新解釈 尖閣は琉球人の生活圏だった

2012-11-07 | 中国側の古文書・地図
使琉球録(1534年)

明朝嘉靖十三年陳侃所著的《使琉球錄》提及福州至琉球經過釣魚嶼、黃尾嶼、赤尾嶼才算踏出明朝領域,渡海到琉球。這也是大有問題,《使琉球錄》關於這段的記載是:「過平嘉山、過釣魚嶼、過黃毛嶼、過赤嶼,目不暇接,一晝夜兼三日之程;夷舟帆小,不能及,相失在後。十一日夕,見古米山,乃屬琉球者,夷人歌舞於舟,喜達於家。」,這清楚說明了,到了古米山才屬於琉球王國領土,並無法反推釣魚嶼、黃毛嶼、過赤嶼(赤尾嶼)屬於中國。而且文章說明琉球人認為過了釣魚台才到家,這豈不證明琉球人早就知道釣魚台的存在。

1534年、中国の福州から琉球に航海をした、明の皇帝の冊封使、陳侃(チン・カン)が著した『使琉球録』に、尖閣諸島についての記載がある。

1996年10月18日付「人民日報」は、この『使琉球録』について、次のように解釈している。

「十日、南風はなはだつよく、舟は飛ぶように進み、流れにそって下ってもあまり揺れなかった。平嘉山、釣魚嶼、黄毛嶼、赤嶼を次々と通りすぎ、見る暇もないくらいだった。一昼夜で三日間の航路を進み、夷の舟は帆が小さく、われわれの舟に及ばなかった。その後、十一日の夕方に古米山が見えた。これは琉球に属するもので、夷の人は舟上で歌い踊り、故郷への到着を喜んでいる。(訳注)」

(1)古米山は姑米山(島)とも呼ばれ、現在の沖縄県久米島を指す。夷人は、当時船上にいた琉球人のことを指す。文中では琉球人が古米山を見て「舟上で歌い踊る」という、帰還の喜びがありありと描写されており、当時の琉球人が釣魚島を過ぎ、久米島に至って初めて「自国に帰ってきた」と認識していることがうかがえる。釣魚島、黄尾嶼、赤尾嶼などは元来琉球国には属さないことになる。

(1996.10.18 人民日報)



当時の琉球人が、釣魚島を過ぎても何ら反応しなかったのに、久米島を見てから「琉球へ帰って来た」と喜んで踊ったというのである。

一つの可能性として、この漁民が久米島を見て喜んだのは、単に久米島出身の漁民だったからかもしれない。「自国に帰ってきた」と喜んだのではなく、「自分の島に帰ってきた」と喜んだのではないか?

また、島を見て「もうすぐ家に着く」と判断できるということは、当時から琉球人は頻繁に尖閣諸島を往来しており、明代にはとっくに魚釣島の存在をよく知っていたことを証明するものである。

明の人々よりも、琉球人のほうが古くから魚釣島の存在を知り、的確に位置を把握していたことを証明する文献と考えることもできる。




浮生六記只是自傳體小說,保釣人士卻宣稱第五篇海國記那是新發現可證明釣魚台屬於台灣的證據。

引用明清時期《使琉球錄》內容,不將釣魚台列為琉球所有,釣魚台就一定屬於中國嗎?不管是《明史》、《清史稿》都沒有對於釣魚台的紀錄,連中國官方史冊都未提及釣魚台了,那只能說明釣魚台在明清兩朝是個無主之島,既不屬於中國,也不屬於琉球、日本。


久米島から東が琉球だからといって、では久米島より西は中国領だというのか?
魚釣島は古くから「無主の地」であり、もともとは琉球のものでも、日本のものでも、ましてや中国や台湾のものでもなかった。

どこの国の領土でもなかった無人島である。

久米島からが琉球だとして、琉球に属さなかった魚釣島が中国領だという証明にはならない。


また、『使琉球録』には、琉球人が陳侃の船に乗り込んだ経緯も書かれている。

嘉靖12年(1533)11月

是月,琉球國進貢船至,予等聞之喜,閩人不諳海道,方切憂之,喜其來,得詢其詳。翼日,又報琉球國船至,乃世子遣長史蔡廷美來迓予等,則又喜其不必詢諸貢者而有為之前驅者矣。長史進見,道世子遣問外,又道世子亦慮閩人不善操舟,遣看針通事一員,率夷稍善駕舟者三十人代為之役,則又喜其不必籍諸前驅而有同舟共濟者矣。

(訳)この月、琉球国の進貢船が到着し、我々はこれを聞いて喜んだ。福建人は航路に詳しくないので、それを心配していたが、琉球人が来てくれたことを喜び、航路の詳細を聞くことになった。翌日、再び琉球船がやって来た。王子が長史の蔡廷美を迎えに寄こした。嬉しかった。朝貢者に聞かなくても、案内をしてくれるからだ。長史は王子の挨拶を伝え、王子は福建人が船の操縦に不慣れなことを心配して、通訳航海士一名に航海に慣れた者三十人を随伴させ、かわりに操縦させることにした。



福建人は、尖閣諸島近海の航路には、ほとんど詳しくなかったようである。
古来から尖閣の海を往来し、漁場として生活してきたのは琉球人であることが、はからずも中国側が証拠として掲げる文献から、よくわかる。


海図(航海図)と領土領海は別である

2012-11-07 | 中国側の古文書・地図
『指南広義』1708年

琉球國中山王府進貢正議大夫程順則撰於康熙四十七年戊午(1708)的《指南廣義》,往來福建琉球的部分就明確記載釣魚台,保釣人士最愛引用的中山傳信錄也是參考此書寫成。

『指南広義』は、琉球の学者であった程順則(ていじゅんそく) (1663~1734) が1708年に中国瓊河の福州琉球館(柔遠駅)で版行した、那覇-福州間を往来する貢船の航海に供するための指南書。

右ページ左下、福建と琉球の往来の部分に、「釣魚台」という記載がある。
海図なのだから、航海に必要な目標となる島を記載するのは、当然だ。

中国の活動家がよく引用する「中山伝信録」は、この「指南広義」を参考に書かれたと言われている。


《指南廣義》臺大圖書館收藏
台湾大学図書館所蔵の「指南広義」



『中山伝信録』1719年

『中山伝信録』は、中国の冊封副使・徐葆光が著した中国から琉球までの航路図。
船の針路を示す海図に、目印となる島が記載されている。
下の海図の左端に、「釣魚台」と記載されている。



このように、『指南広義』も『中山伝信録』も、船の針路を示す海図に過ぎないのだが、これらの絵を合体させて、中国が尖閣諸島領有の根拠の一つとしている『三国通覧図説』が書かれた。


『順風相送』作者・年代不詳(中国は1403年作と主張)



明朝鄭和下西洋的《順風相送》航海圖中曾經記載釣魚台,依國際公法的原始發現原則,斷定釣魚台自古屬於中國。依此而論,當時鄭和所紀錄的各處,是不是都屬於中國所有?而且這篇文章開始就提到〝取小琉球頭〞,小琉球指的就是台灣,然而明史將台灣歸在外國列傳中。

中国は、1403年(明代)に書かれた『順風相送』が、釣魚島について記した現存最古の文献であり、「原始発見の原則」にしたがって、釣魚島は中国の領土だと主張している。
もしその議論が成り立つのなら、では、この『順風相送』に出て来た島は、すべて中国領だと主張するつもりなのか?


※中国の楊潔篪(よう・けつち)外相の「中国は明の時代より600年間、釣魚列島(尖閣諸島)を支配している」という発言の根拠になっているのが、この『順風相送』だが、このほど石井望・長崎純心大准教授(漢文学)が8日までに「完全な誤りだ」と学術的に反証した。

 詳しくはこちら

   ↓
 ■領有主張「完全な誤り」 「中国が600年前から支配」 石井氏、学術的に反証 〝尖閣は琉球文化圏〟と指摘(八重山日報 2012年11月9日)
http://bit.ly/UuJEzd

『順風相送』もまた、領土領海図ではなく、単なる航路図に過ぎない。

明代の『順風相送』の中に釣魚嶼の名があり、冊封使の記録に釣魚台の名が登場するからといって、尖閣諸島が中国領であった証拠にはならない。

台湾は、明代には中国領ではなかった。
外国とみなされていたはずである。


中国の主張は、こうだ。

・台湾は、明代からすでに中国の領土であった。
・しかし、当時の明朝が台湾を実際に統治していたかと言われれば、実際は台湾は海賊の巣となっていたのが実情である。(しかし領有権は中国にあった)
・台湾の澎湖島は、福建省の行政管轄内にあった。澎湖島の巡検司が台湾を管轄していた。したがって、台湾は古来から福建省に属していた。
・その台湾に附属する島が釣魚嶼である。

釣魚島は台湾のもの、台湾は明代から中国のもの。
したがって、釣魚島は明代からずっと中国のもの。
このような三段論法になっている。

しかし、下の『大清一統志』という文献を見てほしい。


『大清一統志』1744年



《大清一統志》說台灣是「自古荒服之地,不通中國」名曰東番。明天啟中(1621-27)為紅毛荷蘭夷人所據,屬於日本」。

「台湾は古来より荒服の地であり、中国と通ぜず、名は東蕃。天啓年間(1621-1627年)紅毛荷蘭夷人(オランダ人)に占拠される。(中略)台湾はもともと日本に属する」と記載されている。

したがって、「明代には台湾は明の領土であった」という中国の主張には、まったく根拠がない。


<結論>

単なる航海図に記載されているからといって、その島を領有していたことの根拠にはならない。
中国が古来から尖閣諸島を領有していた根拠としている『三国通覧図説』は、これらの「船の針路図」を見た江戸時代の日本人が書き表した絵に過ぎない。
江戸時代の日本人が、小さな島の所属をどこまで把握していたかは、甚だ疑問で、その証拠に、『三国通覧図説』では台湾所属の島を中国や尖閣と同じ色で塗り分けている。

信頼性に乏しい資料であるということだ。

通過しただけで「自国領」?

2012-11-07 | 中国側の古文書・地図
每次提及領土問題,中國就喜歡〝自古以來〞云云,像某些中國古書提及發現尖閣群島的記錄:這是最爆笑的,發現(路過)從來就不是所有權的理由,「先佔」(例如在島上駐軍、駐人、有燈塔、出張所、倉庫)才是所有權的展示。

領土問題について語る時、中国はよく「○○は古来から我が領土」という言い方をするのが好きだ。中国が根拠とする古い文献に、確かに尖閣諸島の記述があるが、これを読んで笑ってしまった。

「尖閣諸島を見た」「尖閣諸島を通った」──ただそれだけなのだ。
近くを通っただけで、その島は自分のものになるのか? そんなことはない。
「先占」の所有権とは、その島に軍隊が駐留すること、人が実際に居住すること、出張所や灯台、倉庫などを建設することを言う。

中国が根拠とする文献をよく読めば、清国の船はただ尖閣諸島の近くを通過し、その時に島を目撃しただけだ。
これでは、所有権を主張することはできない。


清朝周煌著琉球國志略


再說,自古以來「路過」尖閣群島的人不知凡幾,日本人、琉球人、西班牙人、荷蘭人、美國人、葡萄牙人多的是。

古来から、尖閣諸島近海を通過した人々は、はかりしれないほど存在する。
中国人だけではなく、日本人、琉球人、スペイン人、オランダ人、アメリカ人、ポルトガル人、いくらでもいる。

それらの人々が、みな「この島は自国の領土だ」と主張しているだろうか?


下関条約

2012-11-07 | 下関条約(1895)
首先釣魚台和台灣根本沒有法理上的關係,日本也不是根據馬關條約取得釣魚台,證據就在馬關條約的簽訂的時間。日本是在1895年1月14日的日本內閣會議中把釣魚台納入國土,3個月後(4月17日)才和清國簽定馬關條約(你看,連證據這樣確鑿的東西都在說謊)

尖閣諸島は、1895年1月14日、閣議決定によって日本の領土に編入された。
中国は「尖閣諸島は下関条約によって、台湾を割譲された時、中国から切り離された」と主張しているが、日清講和条約(下関条約)の条文では、尖閣諸島については一切言及されていない。

それもそのはず、日本が尖閣諸島を日本領土に編入したのは、下関条約締結の3カ月も前であり、下関条約とは、一切無関係なのであるあ。


※下関条約とは…1895年4月17日に春帆楼(しゅんぱんろう)で締結された、日清戦争後の講和会議における条約である。正式名称は日清媾和条約。清国は、遼東半島、台湾、澎湖諸島など付属諸島嶼の主権ならびに当該地方にある城塁、兵器製造所及び官有物を日本に割与した。

日清講和条約第2条


條約又指明兩國將按照此一條款,以及條約粘附的台灣地圖,另行劃定海界。該地圖由山吉盛義繪制,當中並不包括釣魚台。



下の地図は、下関条約締結時に取り交わされた地図である。





當時負責與日本交接的清國代表是李經芳,雙方並簽有交接臺灣文據。李經芳對於日方所畫出的台灣附屬島嶼區域並未提出異議,還說交接〝均皆清楚〞為此兩帝國全權委員願立文據,即行署名蓋印,以照確實。光這份文件保釣人士就百口莫辯了,所以只能不停〝考古〞混淆視聽。

下関条約第5条に従い、1895年6月2日、「台湾受け渡しに関する公文」に署名する際、日本の水野弁理公使と清国の李経方全権委員との間で、台湾の附属諸島嶼の範囲について、次のようなやりとりがなされた。

李は、日本が後日、福建省付近に散在する島嶼を台湾附属島嶼と主張することを懸念し、「台湾所属島嶼に含まれる島嶼の名を目録に挙げる必要はないか」と尋ねた。

水野は、「島嶼名を列挙すれば、脱漏したものや、無名の島があった場合、日中いずれにも属さないことになり不都合である。台湾の所属島嶼は海図や地図などにおいて公認されており、台湾と福建との間には澎湖列島の「横はり」があることから、日本政府が福建省付近の島嶼を台湾所属島嶼と主張することは決してない」と応答し、李も肯諾した。

另外兩個可能有爭議的島嶼是彭佳嶼、蘭嶼, 在日方與法國和西班牙確認後納入領土,1899年台灣總督府民政部文書課發行的台灣總督府第一統計書就以彭佳嶼(アギンコート島)為台灣極北,到此想拿馬關條約保釣已經不可能了。



序文

2012-11-07 | その他
尖閣諸島は長らく、無主の地(誰のものでもなく、どこの国の領土でもない地)であり、付近はカツオの好漁場として知られ、古くから琉球の漁民が漁をしていました。魚釣島や久場島には日本人が居住し、最盛期には248名もの島民が住んでいました。

中国は「明や清の古地図に釣魚島が記載されている」ことをもって、「尖閣は古来から中国の領土」と主張していますが、単なる海図に尖閣諸島が記載されているのは、航海の上で標識となる位置に点在していたためであり、中国の領土であった証明にはなりません。

明治28(1895)年、明治政府は、尖閣諸島が無主の地であり、どの国の支配権も及んでいないことを調査し、確認したうえで、日本領土に組み入れました。これに対して、どの国からも異議申し立ては行われませんでした。

ところが、1969年、国連の調査団が尖閣諸島近海の海底に豊富な油田がある可能性を示唆したところ、中国は翌年の1970年、「尖閣諸島は、古来より中国の領土である」と、突然、尖閣諸島の領有権を主張し始めます。

しかし、中国側の公文書や文献をみても、海底資源が発見される前の中国は、「尖閣諸島は日本の領土」であることを明確に認めてきたのです。

中国は今、日中に残る貴重な古地図や文献を次々に回収・処分し、証拠隠滅を図ろうとしています。このブログは、台湾の学者や世界中のネットユーザーたちが、貴重な証拠文献を後世に残し、今、中国共産党が13億の人民についている「嘘」を明らかにしようと、ネット上に公開した情報を集めたものです。

真実が明らかになったとき、中国13億の人民は、自分たちの本当の敵を知るでしょう。

中国共産党が行ってきた数々の真実を明らかにし、中国人民解放軍の正体を世界に明らかにすることで、中国の人民が、一日も早く本当の「自由」「人権」「民主主義」を手にすることができるよう、願ってやみません。