「人間って、死ぬもんなんだよね……」

私が明日、死ぬとわかったら「自分にも相手にも優しくなる」
人間は、いつ死ぬかわからないんだ…みんなに優しくしよう。

臨済録 by OSHO「第七話 不動の 全一さ」05

2013-05-27 16:26:45 | OSHOの講話



【 金牛は わざと倒れてみせた。臨済は 再び打った。】



さて、この一撃は 金牛の “わざと″ に 対してだ ーーー この仕草だけでなく、金牛の 生涯すべてが 見せかけだ。
彼は 師(マスター) ではないのに、師のふりをしてきた。


【 金牛は言った。
「今日は 運が悪い」】

これは 理解している人の 応答ではない。
彼は まだ “運″ の見地で 考えている。

臨済の 振る舞いの意味を 理解していない。

彼は 責任を転嫁している。

世間の すべての人と 同じように、宿命、神の意思、手相、出生図など、ありとあらゆる馬鹿げたものを 口実にして、「しかたがない、今日は運が悪いのだ」と。

実のところ、臨済は やり過ぎたくらいだ。
金牛に 何度も何度も 理解する機会を与えたーーーそれは金牛の 生涯にとって最良の日だったことだろう。


招いてもいないのに、ひとりの師(マスター)が わざわざ山から 金牛の僧院に下りてきて、彼を 目覚めさせようとした。
だが、
彼は “運″ の 良し悪しを 考えている……。



【その後、イ山(イサン)が 仰山(キョウザン)に尋ねた。
「この二人の やりとり、勝負は あったのだろうか?」】


これは 禅において 何世紀にもわたって 問われてきた。
「あの日、何が起こったのか?
どちらが勝ち、どちらが 負けたのか?」


【その後、イ山が 仰山に尋ねた】ーーー二人は ともに偉大な 禅師だ。

【「この二人のやりとり、勝負はあったのだろうか?」
仰山は言った。
「勝つときは 無心に勝ち、負けるときには 無心に負ける」】


これはひじょうに 深遠な声明だ。

つまり、勝つか負けるかという問題は 無意味だ ということだ。

肝心なのは、何が起ころうとも 無心であること、内発的であるべきだという点だ。

内発的に 敗者であることには、勝者であるのと 同じくらいの価値がある。

真の価値は 内発性に、無心である ことにある。


しくじっても、それは自然の 贈り物だ。
自分の失敗を 喜んで受け容れる。

誰にも わからない。
暗い夜でさえ 美しい夜明けに変わるかもしれない。

どちらが勝ち、どちらが 負けたか、評価を 下しはじめるべきではない。

禅の出会いにおいては、何が 起ころうと 両者ともに内発的でありつづけるべきだ。
価値は 内発性にある。

禅は 勝利というものには まったく価値を認めない。


勝利は 闘争の世界、条件をともなう世界、欲望をともなう世界の 一部だ。

禅は 勝利や 敗北には 何の注意も払わない。
どちらも 無意味だ。

意味があるのは 内発性だ。

内発的な人が 敗北し、勝者が 無心でない場合もありうる。
禅の 見地では、
敗者の方が 高い境地に いることになる。


(つづく)




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