【将棋】山田定跡をひたすら称賛するブログ

居飛車急戦党の将棋史研究。
古の棋書から、将棋の思想・捉え方の変遷を追います。
時々、ネット対局します。

4五歩早仕掛け?の対策について

2024-08-25 23:10:20 | 将棋

「居飛車側の攻めは十人十色。しかも、調べてみるとどれも有力な戦法のようだ。四間飛車は容易に組めるというのが将棋界の通説らしいが、話が違うじゃないか。」(にわか四間飛車使いのアマ二段、2024年)

 

対居飛車の後手番の作戦として新型雁木はまだ二軍調整中なので([3]を読んでる途中)、実戦ではときどき四間飛車を指しています。以前に比べたらマシにはなったかな。

改めて指した感想としては、美濃囲いって言うほど固く無いですね。6一の金が攻撃を受けると大体は寄り筋ですし。だから、振飛車は中終盤に手番が回ってきたら、攻めを繋ぎ切る必要があります。

それに、振飛車は定跡を覚えるのが少なくて済むと言われますが、本当でしょうか。山田先生の時代では確かにそうだったと思います。しかし、その後の研究で居飛車側の仕掛けが創られ続けたので、現代ではそうは言えないと思います。以下に、プロ棋士の言葉を抜粋します。

 

「振飛車が古くからアマチュア間で最も親しまれているのは振飛車が他のいかなる戦法よりも容易に組めるからである。(中略)この相手の策戦にかまわず容易に組めるということが今度の専門棋界に於ける振飛車ブームの一因であることは論を待たない。」((故)山田九段、1959年[1])

「(インタビュワーからの質問「四間飛車の魅力はどこにあると思いますか?」に対して)まずは振り飛車側から見て定跡がすごくラクで覚えやすいということ。そして相手がどう来ても常に自分のパターンで待っていられることが魅力です。(以下略)」(鈴木九段、2016年[2])

 

それはさておき、今回は最近よく見る4五歩早仕掛け?に対して、振飛車側の対策を考えます。疑問符(?)を付けたのは、途中の手順が少し変わっているからです。

基本図は下記となります。居飛車の陣立の特徴としては、①▲3七桂~▲4六歩を早く決めること、②▲4七銀と立っていることが挙げられます。振飛車は「▲4七銀は4筋での反撃時に当たりがきつくなる」と考え、△4三銀を決めます。

以下、▲4五歩、△6四歩、▲4四歩、△同銀、▲4六歩が問題の局面です。折角の持ち歩を低い位置に打っちゃうんですか?

次の▲4五桂を受けるだけなら△4三飛でしょうね。なおも▲4五桂に対しては△4二角とかわせば、▲4四角~▲5三銀の強襲を防げます。

あと、Honeywaffle[4]によれば△6三金と居直っても良いみたいです。▲2四歩の突き捨ては△同角で目標の角が逃げられるので(▲2四同飛~▲4三歩~▲3二角の筋が無い)、単に▲4五桂と跳ねるぐらいでしょうか。以下、△同銀、▲同歩、△8八角成、▲同銀、△3七角、▲2九飛、△4五飛は必然の進行だと思います。

居飛車には早い攻めが無く、しかも歩切れが痛い。一方で振飛車には△1五角成~△4六歩~△2六桂の攻め筋があります。居飛車の6三銀型を咎める形になりました。あれ、思った程ではない?

ちなみに、居飛車が昔ながらの5七銀左型で▲4六歩打をするとどうなるのでしょうか?まぁこれも、△7四歩と居直るんでしょうね。以下、▲4五桂、△同銀、▲同歩、△同飛で、定跡よりも振飛車が一手得しています。

 

 

【参考文献など】

[1] 山田道美将棋著作集、第一巻、大修館書店、pp. 97、1980年

[2] 日本将棋連盟、「将棋戦型別名局集2 四間飛車名局集」、pp. 20-21、2016年

[3] 佐藤和俊、「新型雁木試論 バランスとカウンターの新体系」、マイナビ、2022年

[4] 渡辺光彦氏Webページ、https://note.com/honeywaffleshogi/n/nf5ea34e9b00b#29dc1524-1ef9-4e74-bcf3-1308018a5617、参照日2023年12月24日


今更になって論理実証主義を学ぶ

2024-08-25 20:07:19 | 哲学専門書

将棋道場で行う感想戦でしばしば感じることですが、「将棋に勝った(又は負けた)原因は〇〇だ」と言うのは、一般的に思われるより遥かに難しいです。というか、哲学的には不可能だと思っています。なので私は、感想戦で相手の指手を指摘するのは、自分からはしません。相手から尋ねられたら指摘しますが、努めて謙虚な態度で行います。それ以前の問題として、所詮はアマチュアの見解ですし。しかし、ここから先は哲学の議論をするので、プロアマの区別は不要です。

私の主張はこうです。「将棋に勝った(又は負けた)こと」は誰もが認める事実ではあるものの、「その原因は〇〇だ(例:序盤で作戦勝ちした、中盤に上手く捌けた、終盤を読み切った)」という見解の正しさは、誰もが認めるような形に仕上げることは出来ない、と考えます。「その原因は〇〇かもしれない」と発言者が発想する時点では、その考えは仮説のはずです。そして、〇〇以外の変化手順をひたむきに調べ続ければその仮説の確からしさは増えるものの、将棋は複雑なゲームなので全ての変化手順を調べるのは現実的に不可能です。つまり、「その原因は〇〇以外には無い」ことの厳密な真偽は明らかに出来ないので、仮説は確からしさが増えてもやはり仮説のままであり、誰もが認める真実とは成り得ません。

上記の議論は自然科学にも展開できます。我々がニュートン力学の三法則を利用するのは、それは誰もが認める真実だからでは無く、それが仮説として他の理論よりも確からしいから、ということになります。経験によりテストされる理論には、常に帰納法の問題が付きまといます。

 

しかしながら、哲学を否定主義に留めておくのはつまらないことです。むしろ、たとえ不完全であっても、仮説の真偽に少しでも近づく方法を主体的に考える方が、外界の知識や知恵への興味を刺激して望ましいでしょう。このテーマについては色々な立場があります。弁証法的観念論(ヘーゲル)、超越論的現象学(フッサール)、方法論的虚無主義(ファイヤアーベント)等々。

自分といえば、今は論理実証主義に興味があります(理由は割愛)。この哲学は議論の厳密さを最優先するために、知識の生産性は他の哲学よりも低いように思います。でもそれは、第一次世界大戦後という時代背景を考慮すると、少なくとも動機としては頷けます。

そこで、論理実証主義の代表作である、A. J. エイヤーの「言語・真理・論理」[1]を読んでみました。幸いにも、ちくま学芸文庫が2022年に再版しておりました。議論の展開は荒っぽいですが、それは当時の哲学界の切羽詰まった事情のためでしょう。さらには国際社会もかなり混乱していました。そういう状況下の中でも、エイヤーは26歳の青年(初版出版時)であるにもかかわらず自身の言葉で哲学を展開しており、その知的勇気を私は尊敬します。

現代社会では大卒社会人2~4年目が執筆者の同世代に当たりますが、普通の若者はエイヤーみたいに自分なりに知識や知恵を構築しようとはしません。この原因を彼らの勇気の無さに求めるよりも、むしろ、その上のオッサン世代(私も含む)が自身の世界観を彼らに押し付けているのを反省すべきです。我々オッサンだってさらに上の世代から同じように押し付けられた、という言い訳なんてせずに。だから、私のようなオッサンこそ、知的勇気というのもを学ぶ必要があります。そういう訳で、エイヤーの他の著書も読んでみようと思います。

 

【参考文献など】

[1] A. J. エイヤー著、吉田夏彦訳、「論理・真理・言語」、ちくま学芸文庫、2022年