【将棋】山田定跡をひたすら称賛するブログ

居飛車急戦党の将棋史研究。
古の棋書から、将棋の思想・捉え方の変遷を追います。
時々、ネット対局します。

私の将棋ノート

2024-08-19 19:14:27 | 将棋

私は、将棋の練習において、対局後に自分なりの反省点や見解などを文章にまとめるのを重視しております。

以前は自宅のPCで、重要局面をパワーポイント1枚(下図)にまとめていたのですが、書いたことが記憶から薄れやすく、不満を感じておりました。

最近、将棋道場へ新しく通いだした子供がいまして、その子は対局後に自分のノートに何かを書き込んでいました(中身は見ていません。その子のプライバシーですから)。

私は、その子の年齢では学校ですらノートを取らなかっただけに(理由は別のブログで説明)、局面評価を自分なりの言葉で表現しようとする姿勢になおさら感心しました。そこで、その子のやり方を自分も取り入れることにしました。

 

ノートといっても白紙に9×9マスを手書きするのは大変なので、白紙の局面図がフォームとして用意されているのが好ましいです。そこで、ネットで探していたら以下の商品を見つけました。

株式会社いつつ 将棋ノート

株式会社いつつ様は、中倉彰子先生が運営されています。株式会社を設立するハードルは会社法施行で下がったとはいえ、将棋界ではまだまだ珍しいことです。他に知っているのは、株式会社ねこまど様ぐらいです。

 

中倉先生の代表取締役メッセージ[1]には共感するところが多いです。一部を抜粋させて頂きますと。

私は将棋という世界で生きてきましたが、プロの世界は勝ち負けの世界である一方で、勝ち負け以外にも多くの価値があります。子供達に将棋を伝えていく中で、その価値に気がつきました。(以下略)

同社の将棋ノートにも、中倉先生の上記のお考えが反映されているものと期待して、購入させて頂きました。今はこんな風に使っています(※1)。ノートの効果について私が感じたことは、改めて別のブログで取り上げます。

職場では殆どの文章をPCで作成するので、将棋ぐらいは手書きで文章を書く方が、バランスが取れて良いでしょう。手書きという身体活動が学習に与える効果は、佐藤健二氏の社会学的な考察[2]が分かりやすいと思います。

ただし、手書きしさえすれば良いというものではありません[3]。自分で考える手段として手書きがある訳でして、行為主義を認めることはできません。

 

(※1)将棋ノートのフォームや構成には著作権が発生する可能性があるので、事前に写真掲載の許可を株式会社いつつ様から頂いております。

 

【参考文献など】

[1] 「いつつについて|株式会社いつつ」、https://www.i-tsu-tsu.co.jp/about/?_ga=2.113861639.1827194630.1723856921-655802062.1721189510、閲覧日2024年8月17日

[2] 佐藤健二、「論文の書きかた」、ちくま学芸文庫、2024年、pp. 230-233

[3] 石郷岡知子、「高校教師 放課後ノート」、平凡社、1993年、pp. 41-49


四枚落ちの下手棒銀の駒組について(長い前置き)

2024-08-15 17:59:32 | 将棋

今更ではありますが、将棋界にとって「定跡」とは何なのでしょうか?

私の手元にある新明解国語辞典第八版[1]では、「(将棋で)その局面で最善とされる、決まった指し方」とされています(※1)。最善とされる指し方は時代とともに変わりますから、定跡書は版を重ねてその内容をアップデートしていくものであるはずです。実際、(故)山田九段は過去の雑誌投稿に言及しつつ、新手順を掲載しておりました(例:△四間飛車5四歩型に対する斜め棒銀において、△6二角(打)(1964年)[2]⇒△5三角(打)(1969年)[3]へ変更。)

さて、上記のような気持ちで近所の大型書店の棋書コーナーを見てみると、タイトルに「定跡」を冠した棋書はあまり見かけません。「〇〇〇の基本」とか「〇〇〇のコツ」という棋書はありましたが。なるほど、出版業界で版を重ねるのは大変なことだから、そう易々と「定跡書」を名乗ることはできないでしょう。

しかし、書店の本棚をよく探してみると、所司七段の複数の棋書[4]-[6]は「定跡」を冠しているではありませんか。この特殊な出来事は、きっと、所司先生は難解な定跡手順をアマチュアに分かりやすく伝えようとする熱意があるために違いない(※2)、という風に、私は所司先生と山田先生を重ねてしまいました。今では自身の身勝手さと世間知らずさを反省しております。

(※1)もちろん、辞書は一般人が持っている共通認識を言語化したものであって、専門家(プロ)の認識とは異なることはよくあります。しかし、棋書は一般向けに販売されるのですから、辞書的な意味を考慮しない訳にはいかないはずです。

(※2)奥付に重版が為されていないのを確認してはいましたので、当時も全く鵜呑みにしていた訳ではなかったです。

 

勝手な思い違いをしている人間(ブログ主)には、遅かれ早かれ天罰が下るものです。問題の局面(四枚落ち)は下記です。

上図は、所司七段の「【新装版】駒落ち定跡」[7]のp. 75と同一局面です。同書では▲1四歩、△同歩、▲1二歩、△5二金、▲1四銀、△1三歩とされており、以降も手順は長いですが、下手は銀桂交換の駒損ではあるものの、成香を作って下手十分な岐れとなります。確かに、私の将棋の先生も、以前はそのように対応されておりました。

しかし最近、将棋の先生は上記手順の途中で変化されるようになりました(変化手順は先生の営業秘密なので伏せます)。こうされると、下手の狙いだった成香作りが不可能になります。

この変化手順の評価値(水匠5[8])は本手順よりも下手有利に傾くので、下手が正しく咎めれば優勢になる類のものかもしれません。しかし、アマチュアに新しい狙いを探させるように仕向けて思考を追い付かなくさせるのは実戦的なテクニックだと思います。加えて、別の将棋の先生からも、「自分も30年前、奨励会時代にプロの先生に指されたことがある」との証言を得ていますから、この変化手順は当時から一部のプロ棋士にとっては知られていたと推定します。これは所司七段の「駒落ち定跡」が書かれた2000年より前のことです。奨励会でも指されるくらいなのですから、この変化手順は本手とせずとも簡単に触れてもよかったのではないでしょうか。

そもそもの話になりますが、よく考えてみると、2000年に書かれた定跡書を同じ内容で2023年に新装版として出版するのは、冒頭でお示しした定跡の辞書的な意味を鑑みると不自然です。普通の学術書なら、新版や増補版などを出版するところです。

 

専門家(プロ棋士)で使われる用語が含意することが、辞書に縛られる必要は全くありません。それでは、プロ棋士の方々は定跡という用語をどのような意味で捉えているのでしょうか?私の将棋の先生は、「定跡は一つの道しるべだ」と仰っていました。なるほど、定「跡」という漢字の当て方に対応する上手い比喩です。一方で(故)山田九段は、「定跡は広い意味で『本筋』の集成である。私の経験からいえば、上達の近道は定跡によって『本筋』の形や手順を知り、実戦の経験によって『本筋』の意味をマスターすることである。」[9]としています。私の将棋の先生よりも強い意味が記されており、その内容もより正確です。そして、所司七段もご自身なりの意味を持って、定跡という言葉を使われているのでしょう。

つまり、プロ棋士といえども「定跡」という言葉が意味するところは、各人によって異なることが推測されます。これを哲学では「言語の問題」と呼ばれ、将棋界以外でもよく起こることではあります。それでも私としては、意味を統一しようとするのは労力に対して割に合わないと思うものの、将棋指導を進歩させるためにはプロ棋士同士が議論して、他人と自分が持つ用語の意味の違いを認識する努力は必要だと思っています(※3)。そうしないと、プロ棋士の定跡解説の客観性が弱いために社会的な信用が知らず知らずのうちに低下し、最近流行りの匿名ユーチューバの解説が益々世間を席巻することになるでしょう。とはいえ、現実にはプロ棋士の先生は明日の対局の準備に忙しいので、将棋の普及に関する問題は脇に追いやられがちなのも、構造的問題として認めなければなりません。

(※3)これは、私の仕事であるエンジニアリング(製品開発)でも重要と考えることの一つです。同じ業界であっても、使われる専門用語(ジャーゴン)は会社によって違うものです。

 

【参考文献など】

[1] 山田忠雄他、「新明解国語辞典」、第八版、三省堂、2020年

[2] 山田道美将棋著作集、第一巻、大修館書店、1980年、pp. 282-284

[3] 山田道美将棋著作集、第五巻、大修館書店、1980年、pp. 63-64

[4] 所司和晴、「駒落ち定跡コレクション404」、マイナビ、2019年

[5] 所司和晴、「四間飛車定跡コレクション404」、マイナビ、2018年

[6] 所司和晴、「中飛車定跡コレクション404」、マイナビ、2018年

[7] 所司和晴、「【新装版】駒落ち定跡」、日本将棋連盟、2023年

[8] たたやん氏Webページ、https://drive.google.com/file/d/1T-Go2KImMfKD_4m_j4fQFXrEfaGgAcS_/view、閲覧日2024年1月7日

[9] 文献[2]のpp. 4


角落ち下手側からの右四間飛車対策

2024-08-11 08:24:47 | 将棋

前々回のブログでは、他人の意見や主張への批判は、その人への人格批判に繋がり得ると申し上げました。だから、せめてもの誠意として、ブログに実名を公表致しました。

 リンク先:これからは実名でブログへ投稿します

上記について、世間一般ではどのように考えられているのでしょうか。一例として、ネット道場「81道場」を見てみます。利用規約に当該条項が載っていたので抜粋します[1]。

5. 棋譜・対局の公開の権利

5.3. 81Dojoで指された対局のシーンや棋譜を公開する場合、下記のルールを守って下さい。
公開物の中で、対局者を貶める描写・誹謗中傷をしないこと
  例) ○ 「相手の▲○○○の手が悪手で、勝つことができた」
        → 指し手自体に対する評価であるため可
    × 「相手が弱かったので、勝つことができた」
        → 対局者自身をマイナスに主観評価しているため不可

この説明に関する不満を二点申し上げます。一点目は主観というものに関してです。×(ばつ)とされるコメントではマイナスの主観評価が良くないとのことですが、私に言わせれば、〇(マル)とされるコメントだって当人の主観です。第一、対局相手は▲〇〇〇を悪手と思っていない可能性があります。尤も、「▲〇〇〇の手が悪手」という認識が客観的か否かについて社会調査をしたのなら分かります。しかし、個人のブロガーがそんなことは普通しないはずで、ならば当人の都合の悪い方(主観的)でとりあえず仮定するのが誠意というものです。

それに、〇(マル)のコメントの「相手の▲〇〇〇の手が悪手」というのは、「その瞬間は相手は弱かったこと」の特殊な形の一つといえます。一方、×(バツ)のコメントの「相手が弱かった」ことが、瞬時的か恒常的かのどちらであるかは文脈などから推測できません。なので、上記の〇(マル)のコメントは×(バツ)のコメントの特殊な形の一つとする余地があります。

二点目は評価というものに関してです。「勝ったこと」はもちろん事実ですが、「その原因が相手の▲〇〇〇の指手だった」とすることは仮説に過ぎません。仮説を述べること自体を評価といえるかどうかは、甚だ怪しいと私は思います。しかし一方で、利用規約の作成者はそれを評価だと考えるのは、どのようなイデオロギーから由来しているのでしょうか。例えば、論理実証主義(科学的仮説は、経験から論理的に実証できる)を信じるなら、前述した考えが得られるかもしれません。けれども、他人に「あなたの哲学上のイデオロギーは何ですか?」と伺うのは礼儀に反するので、これ以上考えるのは辞めておきます。

結局のところ、批判と誹謗中傷の明確な違いは、今回ご紹介した利用規約から得られませんでした。

 

前置きが長くなってしまい恐縮ですが、今回は角落ちにて下手が一直線に右四間飛車を狙う際の、上手の受け方を考えます。

最序盤は下図のような感じで。実戦では飛車先を直ぐに切ってしまったために、守りの陣立ちが遅れて負けてしまいました。なので、飛車先切りは権利として保留しておきます。

下図は大事な局面です。私なら二枚落ちの二歩突っ切り定跡のノリで、△2二銀と指したいです。

なぜなら、下手が右四間飛車を狙ってきても、以下▲3六銀、△3四歩、▲4八飛、△3三銀で4筋が受かるからです。

上図で水匠5[2]の評価値は、+658(初形)⇒+567です。局面が進んだにもかかわらず評価値が下がっているので、最善かは分かりませんが十分ではないでしょうか。

 

 

【参考文献など】

[1] 81道場|利用規約、https://81dojo.com/jp/terms.html、閲覧日:2024年8月11日

[2]たたやん氏Webページ、https://drive.google.com/file/d/1T-Go2KImMfKD_4m_j4fQFXrEfaGgAcS_/view、閲覧日2024年1月7日


▲8七玉型左美濃の引き角への対策(△四間飛車)

2024-08-10 09:02:28 | 将棋

最近、将棋道場に新しいお客さんが何人かいらっしゃって、その半分の方々がリピーターになって下さいました。自分のような古参にとっても、対局相手が増えるのはありがたいことです。

ここの将棋道場は先生が振飛車党であるためか、古参のお客さんとは対抗系(私が居飛車)を指すのですが、最近来て下さっているお客さんとは相居飛車になることが多いです。私は相居飛車の場合、同じお客さんと同じ戦法ばかり指すのは避けたいという思いがあります。なので、たまに自分から飛車を振るのですが、苦手な振飛車を定跡党が手将棋でやったところで、そりゃあ勝てないですよね。

そういう訳で、一度放棄した四間飛車をこれから少しは勉強しようと思います。序盤がしっかりしているお客さんですので、勉強の効果が実戦で出やすいと期待します。

 

今回は、▲8七玉型左美濃の引き角に対する△四間飛車の受け方を考えます(序盤の駒組は文献[1]を参照)。振飛車が何気なく駒組をしていると攻めを食らってしまうことがあるので、注意が必要です。

まずは、居飛車が最速で引き角をする場合。△4三銀で攻めを受け止めにいきます(△4五歩で攻め合いたい気持ちを抑えて)。

以下、▲2四歩、△同歩、▲同角、△2二飛、▲2五歩として・・・

△8八玉と入るぐらいでも、▲3三角成、△同桂、▲2四歩、△2五歩で受かります。

上図をみると、振飛車は5筋の歩突きを保留しているために、▲3一角が生じないのが大きいですね。うーん、歩の突き方が居飛車の感覚とは違う・・・

 

もう一つ、居飛車が▲6六銀~▲5五銀と進出した場合を考えます。実戦では△4三銀と指してしまい、▲6六銀と急所に銀が来てしまいました。

なのでここでは△6三金として、前記に備えます。こうすれば、居飛車はそもそも引き角が出来ない。

というのも、▲7九角には、△5四歩、▲4六銀、△4五歩で銀香両取りがかかるから。

これぐらいで居飛車の第一波の攻めは抑えられるかな?いや、実戦では別の筋が出てくるかもしれませんね。

 

【参考文献】

[1] 藤井猛、「藤井システム」、MYCOM将棋文庫、pp. 8-16、2002年


これからは実名でブログへ投稿します

2024-08-10 00:21:11 | ネットリテラシー・著作権など

以前から考えていたことだが、最近のSNS関連のニュースを見たことをきっかけに、これからは実名でブログへ投稿しようと思う。

2024年8月6日の読売新聞オンラインによれば、匿名のブログ投稿を名誉棄損だとして損害賠償を求めた訴訟において、被告に約120万円の支払いを命じる判決が下されたとのことだった[1]。このニュース記事では、投稿内容の一部が切り抜かれて紹介されていたため、前後の文脈を把握しようとブログを閲覧したが、残念ながら問題のブログ記事は削除されていた。

政府広報は「誹謗中傷と批判意見は違う」[2]としており、「相手の人格を否定または攻撃する言い回しは、批判ではなく誹謗中傷です。」[2]とのことだった。しかしこれだけでは、両者の違いは明確だとはいえない。

例えば、イデオロギー批判は話し手の意図に依らずとも、受け手の捉え方次第で誹謗中傷にも成り得るのではないだろうか。仮に私が資本主義を批判するとして、財閥の独占による経済停滞や、労働市場の失敗による児童労働の横行を具体的な論拠として、痛烈な批判を展開したとしよう。すると、資本主義者の多くは、その批判を理不尽なものと感じるだろう。それらの論拠は確かに事実ではあるが、恣意的に選ばれたものであるからだ。それに、イデオロギーへの批判はそれを信じる人々の価値観への批判とほぼ同じであり、価値観はその人の人格形成に大いに影響を与えるから、結局のところ私の論は人格批判、つまり誹謗中傷に繋がり得ると彼らは捉えだろう。

上記のように深刻に捉えるのは世間では稀だとしても、何かしら不快に感じる人々は多いかもしれない。というのも、私が他人の論を批判する際に、その論の論理的矛盾を取り上げる事は少なくて、むしろその方法論や認識論(広い意味でのイデオロギー)へ視点を向けることが多いからだ。それらは各人の主観的世界観を構築するので、私の批判行為はその世界観を部分的に侵すことにもなる。

だから、私がせめて出来ることは、批判は誠意誠実さに基づくという意思表示をして、相手が感じがちな不快感を軽減するぐらいだろう。その一環として、私の人格が投影された文章を書けるようになるために、今後は実名でブログを投稿しようと思う。良く考えたら、学術論文には署名が必須なのに、ブログには匿名投稿が一般的なのは変だ。たとえ個人の日記のような内容であっても、それを個人的なノートに記すのでは無くて、わざわざブログ投稿を選択するのは、自分なりの思いを他人へ伝えたいからだ。

 

【参考文献など】

[1] 読売新聞オンライン、「パリパラリンピック代表、名誉棄損で120万円賠償命令…「悪あがきもほどほどに」などと匿名投稿」、https://www.yomiuri.co.jp/national/20240806-OYT1T50223/、閲覧日:2024年8月9日

[2] 政府広報オンライン、「あなたは大丈夫?SNSでの誹謗中傷 加害者にならないための心がけと被害に遭ったときの対処法とは?」、https://www.gov-online.go.jp/useful/article/202011/2.html、閲覧日:2024年8月9日