科学的根拠を示せぬもの、数値化できぬもの、目に見えぬものは「無い」と見なされ、効率、生産性の正義のもと除外、淘汰されている。
果ては人間が人間を淘汰(殺戮)する行為も「正義」とされ、もはや戦争は止まぬ。
かつて日本では物質生物問わず万物に魂が宿ると考えられ、八百万の神と称され、慈しまれ、尊重されていた。
また日本中世の物語では、異界(自然界、霊界等)と現実の境目は曖昧で、かつ時空の制約さえ易々と超えられていた。
我々の祖先は森羅万象を敬い畏怖し、己を自然の一部と認識していた。
それは、弱く、儚く、愚かな人間の救いであったと僕は思う。
また言い方をかえるなら、人間の傲岸、残虐性を戒め、まして殺戮を正義などと正当化させることをけして許さぬひとつの思想であった、とも思っている。
日本は近代に入り、西洋から自我や個人主義等、新たな概念、価値観を輸入した。
日本近代文学では、それら新たな概念や価値観を手中におさめ我が物にしようと様々な主題と葛藤が試みられた。
身体の景色カタリで、日本近代文学を使用する理由はいくつかあるが、西洋の価値観と、それまで日本の物語を担ってきたアニミズム的要素が(それは目に見えない場合も感覚的に)同居している点があげられる。
現代、憎悪が幾重にも複雑に絡み合い、もつれ、もはや解決不能と思われる果てに我々は在る。
絡み合った混沌をなんとか紐解き、その細部のひとつを手にし提示することができても、かつその細部が間違いなく真実であったとしても、絡みもつれた全体の解決には至らない。
そればかりか、場合によっては、その真実が新たな争いを生んでいる。
森羅万象を敬い畏怖し、己を自然の一部と認識する感覚から、今一度、現代の諸々の事象を捉え直し、考察することはできまいか。
その感覚が、現代の混沌を調和させる奇跡の力になどなり得ないにせよ、殺戮を正義と正当化する狂気を省みる一石になりはしまいか…。
日本中世の自然観と西洋の価値観が混じり合う(また新たな道の模索の痕跡が残る)日本近代文学をテキストにカタリを行う時、その一石となり得る可能性を垣間見るのである。
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