『気ままブログ』としておきながら、気ままな感じで無くなっているこのシリーズです。
こんばんわ、安井ふみです。
前回『ため息』について真夜中にブログを書いていて、その途中『ため息=生理現象』で済むんじゃない??とか思いまして。
そしたら②を書かなければと思いまして。
でも考えれば考えるほど書けば書くほど、なんか『こどものための“からだ”のお話』みたいな本に、私のオリジナル考察のグダグダ話より、為になる話を平仮名を振ってシンプルに的確に説明してあるものがきっとありそうなので、くじけて止めました。
ただなんとなく書きたいのは、少しスピリチュアル寄りの話になりますが、意識があって、もうひとつに生理的現象をも統括する脳のある肉体があって、『ため息』はそのふたつをダイレクトに繋げてしまえる行動ではないかと思いまして。
例えば尿意を挙げるとして、尿意を感じたからと言って、すぐに出る訳でなく、そこに意識的に短い長いの我慢は必要です。
それこそ意識して我慢することが必要で。いやそこに無意識(『ここでしてはとんでもない』という常識的なもの)もありますが。
無意識は脳の働きの一部として、そして、今そのものを感じ、コントロールしているのが意識と言うものに分けると考えてみます。
(なのにでも意識は幻で、脳が後付けの理由として作っているだけなんじゃ??と思われる有名な実験もありますね、現実。)
そんな風に考えてみて、例えば『あくび』は意識して事前に我慢できるけれど 『ため息』は事前に“ため息出そう”と耐えようとか思うものでしょうか?
と思いつつ、変わり者の脳で作られているかもしれない私の意識は、人様の考え・行動がよくわからなかったりします。
『ため息は直前に意識で“つかないでおこう”と制御できるの??』と考えたことなかったような。
私は自然に出ている派ですかね。それか人前では緊張しすぎて出ないか。
最後までお付き合いいただきありがとうございます。
『自分では普通と思っていたことが常識的ではなかったこと』ここに辿り着くだけのことでしょうか?
それなら気ままブログの着地点として、私的にぴったりでしょう。