「avotakka」 2022年2月号、
右は「artek 20周年記念展覧会、1955年」にて「マイヤ・ヘイキンヘイモ」
Photo: Alvar Aalto Foundation
古いフィンランドのインテリア雑誌が何冊かある。
1976年の 「avotakka (アボタッカ)」で、東京でフィンランドの友好団体「フィンクラブ」を主宰していた荻原カイヤ・レーナさんから、40年程前に貰ったもの。
「avotakka」は、1967に創刊された月刊のインテリア雑誌で、主婦や若い女性を中心にインテリアやデザインに関心のある人達に人気の雑誌。
「avotakka」とは、フィンランド語で暖炉(オープン・ファイアープレイス)の事。
1970年代のものは、日本でいえば「モダン・リビング」「ELLE Decor」や「暮らしの手帳」などを、もっともっと素朴にしたような雑誌だった。
フィンランド語だけの雑誌だが、写真やイラストが豊富で解説は分かりやすく、僕はこの雑誌で、サウナの一般知識や、白樺の枝の束「ヴィヒタ」の作り方を覚えた。
「avotakka」No.6, 1978年6月号
納戸にしまっておいた雑誌は、どれも表紙が擦り切れたり破れたりしていたが、程度の良い1冊を選び写真を撮った。
「avotakka」は、現在も健在で、1970年代のものより格段にお洒落になり、充実した内容で発行を続けている。
最新号に、「アールト」の家具やガラス器で著名な「artek(アルテック)」でインテリア・アーキテクトとして活躍した「マイヤ・ヘイキンヘイモ (Maija Heikinheimo, 1908-1963)」を解説した記事が載っている。
「artek」で活躍したデザイナーといっても「マイヤ・ヘイキンヘイモ」の名前を知る人は少ないかもしれない。
僕は、彼女の名前を「フィンランド建築ミュージアム(Museum of Finnish Architecture)」が1984年に発行した「alvar aalto funiture」という展覧会カタログで知った。
展覧会カタログで、「マイヤ・ヘイキンヘイモ」は「artek」の初期の時代の主要な人物として登場している。
「artek」創設者の一人である「マイレ・グリクセン(Maire Gullichsen, 1907-1990)」は、1982年6月24日の新聞 「ヘルシンギン・サノマット(Helsingin Sanomat)」で、
「マイヤ・ヘイキンヘイモ」は「artek」の重要なデザイナーであり、多くの家具をデザインしたが、彼女はとても謙虚な人で、それらのデザインは建築家と共同で制作したもので、自分の名前を出すのは好きではないと語っていた」 と述べている。
(avotakka の記事より)
彼女は、フィンランドの近代デザインとインテリア・デザインの歴史において、重要な役割を果たしたにもかかわらず、ほとんど目に見えない存在であり続けている。
僕は、「artek」に在籍したデザイナーたちが色々な場面で語る「マイヤ・ヘイキンヘイモ」の才能や人物像、表に出たがらない彼女の「謙虚な性格」など・・・、ずっと気になっていたデザイナーだった。
彼女が、「artek」に入社する前に勤めていた「Asko アスコ・アヴェニウス、当時、フィンランド最大の家具メーカー」での作品や「artek」でのデザイン、アームチェアー43, 45については改めて書きたいと思う。
「avotakka」最新号では、デザイン関係のジャーナリストである「アンナ・カイサ・フウースコ (Anna-Kaisa Huusko)」が「マイヤ・ヘイキンヘイモ」の記事を寄稿している。
彼女の名前は、著書 「北欧フィンランドのヴィンテージデザイン」が、日本でも2013年に パイインターナショナルより発行されているので、知っている人もいるかもしれない。
「alvar aalto furniture、 Museum of Finnish Architecture 1984」
「フィンランド建築ミュージアム」が1984に発行した、展覧会カタログ
ユハニ・パッラスマーが編集を担当。
「artek, alku・ tausta・ kehitys、pekka suhonen、 1985」
「ペッカ・スホネン著、 アルテック、始まり・背景・発展、1985年」
1935年会社の設立から1985年までが詳しく解説されている。
1984年の展覧会カタログや「ペッカ・スホネン」の本、「avotakka」の記事を参考に「マイヤ・ヘイキンヘイモ」の事を少し書いてみたい。
1937年、国際奨学生としてパリを訪れていた「マイヤ・ヘイキンヘイモ」は、万国博覧会でフィンランド部門に展示されていた「アイノとアルヴァ・アールト」の作品を観て、それらに魅了された。
その後、アールト夫妻に会った彼女は、彼らに誘われて、設立まもない「artek」で働くことになった。
彼女は「アイノ・アールト」の右腕となり、デザイン室を取り仕切った。
デザイン室では、建築プロジェクトのインテリアデザインと、「artek」の家具デザインを担当した。
インテリアデザイナーとして最も貢献したのは、「サユナッツァロの町役場」、「国民年金協会」、「ユヴァスキュラ教育大学」、「文化の家」など、いわゆる赤レンガの時代、1949年から1963年にかけての時期である。
さらに、「artek」の家具を製造する「コルホネン家具工場 (Huonekalutehdas Korhonen)」との橋渡し役として中心的な役割も務めていた。
「artek」での仕事は第二次世界大戦勃発により中断されたが、戦後、「アイノ・アールト」は「マイヤ・ヘイキンへイモ」を再び「artek」に呼び戻した。
2人は密接に協力し、会社の再建に努力したが、1949年「アイノ」が癌の病で倒れてしまった。
「アイノ」の引退で、代わりに「マイヤ・ヘイキンヘイモ」が会社の舵取りをすることになった。
彼女は、「アイノ」亡き後、アートディレクターに就任し、1963年に急逝するまで、この職を務めた。
「avotakka」の記事を寄稿した「アンナ・カイサ・フウースコ」は、「アイノ」亡き後の 「アルヴァ」を中心とした人間模様を、当時の所員へのインタビューを引用して書いている。
いささか週刊誌的な内容であるが・・・。
「アイノ」の死は、「アルヴァ・アールト」にとって大きな衝撃であり痛手だった。
「マイヤ・ヘイキンヘイモ」は、この困難な時期に「アルヴァ」の個人的な支えとなり、慰めとなった。
「マイヤ」は、私生活においても「アイノ」の代わりをしたいと思ったのでは・・・といわれている。
しかし「アルヴァ・アールト」は、彼の建築事務所で働く若い女性「エリッサ・マキニエミ(Elissa Mäkiniemi、後のエリッサ・アールト)」と恋に落ちたのである。
この状況は 「マイヤ・ヘイキンヘイモ」にとって衝撃的なものだったという。
(彼らの年齢差が気になり、チョット調べてみた・・・)
アルヴァ・アールト 1898-1976
アイノ・アールト 1894-1949 アルヴァより4歳年上、
マイヤ・ヘイキンヘイモ 1908-1963 アルヴァより10歳若い、アイノより14歳若い、
エリッサ・アールト 1922-1994 アルヴァより24歳若い、アイノより28歳若い、マイヤより14歳若い
アールトの専属カメラマン、「エイノ・マキネン(Eino Mäkinen)」が「アルヴァ」に、なぜ「マイヤ」ではなく「エリッサ」を選んだのかと尋ねたところ、彼はスウェーデン語で
「Jag måste ha lite skratt i mitt liv (人生には、笑いが必要なんだよ。)」
と答えたという。
「マイヤ」は宗教的な雰囲気のつよい家庭で育ったので、生来まじめで地味な性格の女性だったという。
「エリッサ」の若さ、明るさ、美しさは「アルヴァ」を魅了したのだった。
「マイヤ・ヘイキンヘイモ」は、精神的な動揺にもかかわらず、「artek」で仕事を続け、「アルヴァ・アールト」のアシスタントとして働き続けた。
彼女の多忙な生活は、1963年1月に突然終わりを告げた。
彼女は、「artek」での会議の最中に突然、脳卒中で倒れ、回復することなく、55歳の若さで亡くなったのだ。
最新の画像もっと見る
最近の「アルヴァ・アールト」カテゴリーもっと見る
最近の記事
カテゴリー
バックナンバー
人気記事