今日で阪神・淡路大震災から丁度18年が経ちました。
社会人になって1年目で起こった出来事を “年に1度、震災の日に思い出すだけ” なものとしない為、またこの先何十年か後、自分が体験したことを忘れてしまわないように、今覚えていることを書いておきたいと思います。
※この先、表現が生々しい部分があります。また、わんこの話などは一切ありませんので、興味のない方はスルーしてください。
震災当日の朝は、記憶が確かであれば連休明け最初の出勤日だったと思います。前日に、翌日からまた仕事が始まる憂鬱さと休みの名残惜しさをかみ締めながら眠った覚えがあります。
当時の私はまだ芦屋にある実家に住んでいました。
まだあたりが真っ暗な5時46分(といっても、実際には眠っていたので何時だったか定かではない)、最初は少しグラグラ、次に下から突き上げるような激しく長い揺れがあり、ベッドの頭側に置いてあった本棚が倒れてきて頭から本を被り、当時部屋に置いていた水槽は土台の上で何度もバウンドし、底が割れて盛大に水を床に撒き散らしていた。
なので私の地震が収まった後の最初の行動は、舌打ちしながら水槽をベランダに移し、『大丈夫か~!』と安否を確認しあう家族に『...大丈夫』と水浸しになった床(畳だった)を拭きながら答えるというものだった。
ちなみに実家の周辺は、当日の午後には停電復旧していたそうだが、我が家だけが夕方まで停電のまま... 理由は水槽の水がコンセントに入り込み、復旧と同時に漏電でブレーカーが落ちたため。いまだに実家に帰るとそのことを責められます。
幸いにも家族にけが人はゼロ、当時、宝塚歌劇にハマッていた(いまもだが...)祖母は、ノンキなことに家中の荷物が飛び出し爆発事故現場のようになった状態の家を片付けもせず、『次の公演のチケット並びの日だから』と言い残し、家族の『こんな地震やからバスも電車も動いてないって!』という言葉を無視して外に出かけていきました。(しかもバッチリ化粧で...)
後から聞いた話だが、当然電車やバスが動いてるはずもなく、徒歩で阪急芦屋まで1時間かけて歩き、動いていないことを確かめてまた1時間かけてトボトボ帰ってきたそうです。アホやな~と後日笑う家族に、『道路がいたるところで割れてて、盛り上がってて、こりゃ無理だわ~って思った』と振り返ってました。
祖母が出かけたのと同じ位の時間(時計を見ていなかったが、うっすら空が白み始めていたので7時前だと思う)に、私も職場へ向かいました。
出勤時間前に職場が無事か確認しておこうと思いながら、もう一方で入社1年目の新人であった私の頭の中には、『地震で休み』と言われるかもという不謹慎極まりない妄想もあったりしたのだが...
私の職場は、実家から自転車で15分ほどにある救急病院。といっても私はしがない事務職、片付け意外にやることはないだろうと思いながら自転車に乗って、いつもの道を走り出したのだが、至る所の道路はガタガタ、アルファルトは盛り上がり、場所によっては粘土状のドロドロがにじみ出ているところもあった。(これが液状化現象だと知ったのは大分後になってから)
地面からかなり激しい突き上げを受けながら、いつもの公園の明らかにいつもと違う路面に手こずりながら抜け、朝いつも立ち寄るローソンへ
おそらく地震発生から1時間以上が経過してるお店の中は真っ暗で、水や食料を買い求める人たちが暗い店内に蠢き、店の外で店長が1人で手提げ金庫で会計をしていました。
まだあまり危機感のなかった私は、ほとんど品物のなくなった飲料水の棚から缶コーヒー2本(やはりこういう時は水やお茶から無くなるもので、缶コーヒーやジュースはまだ棚に残っていた)を買いました。
手提げ金庫でおつりを渡す店長さんが『こんな状況なので次はいつ商品が入るかわかりません!』と叫ぶ声で、ようやく頭が現実に追いついてきました。
『これはえらいことになってるのかも』
自転車の前かごにコーヒー2本入れて、近づいてくる職場の周辺を見た私は絶句しました。
私の職場の周辺は当時、ほとんどが古い木造住宅で囲まれていましたが、そのほとんどが完全に潰れているか2階部分を残して潰れ、もしくは傾き隣の建物に押し付けられている状態でした。
職場である病院はまだ新しくRC構造であったので、致命的な損傷を受けていないようです。
職員通用口から建物に入ると、電気が来ていない為うす暗く、非常用の照明が所々を照らし出しています
8時前の時点で患者の数はまだそれほど多くなかった記憶がありますが、近隣の潰れた家から避難してきた人たちがロビーのあちこちに座ったり立ち尽くしたりしていました。
5階にあった事務所へ行くと、廊下に並んでいた書庫という書庫がすべて倒れ、事務所も内側の机が入り口を塞ぎ入ることができません。外側から開かない事務所の窓ガラスを壊し中に入り、必要物品を取り出し1階ロビーへ
診察受付はカルテ棚が倒れ、夜警をしていた警備員は逃げ帰ってしまったとのことで、事務長と近所に住んでいた受付職員数名で対応していましたが、そこで事務長から裏の木造アパートで職員が1名亡くなったと聞かされました。
同じ並びのアパート(長屋のようなものです)にまだ職員が閉じ込められてるので救助を手伝うように指示を受け現場へ向かうと、1階部分が押しつぶされ、2階部分だけが残るアパートがありました。
すでに近所の方が中から聞こえる声を頼りに救助作業を行っていたのでそれに参加し、職員2名を無事に救助し病院へ連れて行くことができました。
おそらく10過ぎに病院へ戻ると、よくお世話になっていた職員が『お母さんが家の下敷きになっているが人手が足りない、助けてほしい!』と事務長に訴えていた。徐々に患者も増え始め、少ない職員を大勢出すことができなかったため、新人で病院にいても仕事のない私が一緒について行きました。
おおよそのいた場所を聞き、呼びかけ・瓦を剥がし板を剥ぎ、バールで梁を持ち上げようとしましたが、まったく歯が立ちません。
数人がかりで1時間近く作業をしましたが、結局お母さんを見つけることはできませんでした。
帰り際の『もういいよ、2時間以上経ってるし、呼びかけても返事がないしもう無理やと思う。病院大変やのに付き合ってもらってごめんね』という言葉に自分は無力だと痛感
午前11時を過ぎると、自力で脱出した人たちが病院へ治療にやってきます
軽症から骨折までさまざまですが、ほぼ全員が外傷です。たちまち外来にある包帯やガーゼ・消毒液・薬は底をつき、私たち事務職員は病棟や保管庫の物資を下ろす仕事に忙殺されました。
治療は診察室では間に合わず、通路や受付ロビー、終いには駐車場で行ってました。電気が来ておらず、レントゲンやCTも使用ができないため、骨折などの患者も応急処置しかできず、救急車で被災地以外に搬送しようにも電話が使えず、また仮に使えても消防もパニックになっているため救急車の手配も期待できません。
それでも治療ができる人が来る間は治療を行っていましたが、午後に運び込まれてくる人たちの中には亡くなっていたり、息があるが手の施しようのない人たちが大勢いました
皆、瓦礫の下から発見され、毛布や畳などを担架にして運ばれてきましたが既に手遅れで、中には死後硬直している人もいました。
既に病院内には収容しきれない患者や避難者で溢れかえり、医師が駐車場で死亡時間を宣言し、亡くなった方の手の甲に死亡確認時間と確認者の名前を書いていきました。
特に私が覚えているのは、若いお母さんが冷たくなった赤ちゃんを抱えてやってきて、医師から死亡確認を告げられても『お願いします!助けてください』と何度も医師に懇願する姿です。
きっと一生忘れることはできませんし、あのお母さんの声が耳から消えることはないと思います。
院内に遺体を収容することができず、まだ行政の遺体安置所も設置されていない状況だったため、遺体は駐車場に並べるしかありません
私はほかの職員と共に、日暮れまで遺体を駐車場へ運ぶ作業をしていました。何十と並ぶ犠牲者の遺体、そこに座り込み、うつろな表情を浮かべ動くことができない遺族
生きてるうちに、二度と経験することがない数の人の死を、私は実感できずに黙々と搬送作業を行っていました。
きっと今でも、あの光景を実感できずにいます。
暗くなる頃、すぐ向かいの公民館が臨時の安置所になり、自治会の方が遺体を駐車場から移動して行きました。
食事も摂らず(備蓄も少なく、職員には回らなかった)、ぶっ通しで働いたはずなのに疲れはさほど感じなかったのは、アドレナリンが以上に分泌されてたのと若かったからなんだろう
夜になり、100mほど先には明かりが灯っていますが、病院は暗闇に包まれたまま... 構内の電柱が折れてしまっているため病院へ電気が引き込めないのです。
ふと家のことが気になり、上司に許可をもらい家に一時帰宅することができました
駐輪場に止めてた自転車に入れてたままだった缶コーヒーは姿を無くしてましたが、こんな状況なので不思議と怒りより『そりゃ盗られるわ』と妙に納得しちゃいました。
家に帰るとガスと水道こそ使えないものの電気はちゃんと繋がっていて、買いだめしていた冷凍食品にありつくことができました。
たった数キロの距離ですが、職場の不便さとはまったく違う自宅の状況に逆に違和感が...
曰く『午後には中央公園に自衛隊が物資を配りに来た』そうな... ありがたい話だが、建物が倒壊し寒さに震え空腹に耐えて避難している人たちを見ているだけに、建物の倒壊もほとんどない新興住宅地に大量の物資が運ばれ、本当に物資が必要な場所には届かない状況に、青二才ながらも戸惑いと苛立ちを覚えました。
あれから18年、今でも同じ職場で働かせてもらっています!
記憶を記録としてここに残し、あの日の出来事、感じた感情などをしっかり覚えておこうと思いここに記しておきます。