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昭和47年5月15日 沖縄が祖国日本に復帰しました。
敗戦の最大の負の遺産であった、100万人同胞の異国の支配が終わった歴史的な記念日です。
私はその時、小学校2年生でした。
学校では本土と同じ教科書を使っていたので、算数のお金の計算問題は「円」で書かれていました。
「消しゴム1個5円、鉛筆1本10円です。消しゴム2個と鉛筆5本でいくらでしょうか?」
というような問題です。
私は復帰するまでは、円というお金を見た事がありませんでした。
円で問題をかかれてもピンとこなかったのです。
日常の生活の金銭感覚は、コカコーラ1本5セント、500MLのコカコーラホームサイズは15セント
ブルーシールアイスクリーム1個10セント 安いアイスクリームは5セントという感じでした。
駄菓子は1セントで2個や3個という物もあったのをよく覚えています。
■復帰とともに急速に変った日常
復帰した5月15日から17日の3日間かけて沖縄の通貨は、円に切り替わりました。
その日から教科書の世界、テレビの世界だけでしか見た事のない円を持って買い物を
する事ができるようになったのです。
3日間は市場で円とドルの両方がごちゃまぜになって使われていました。
そのため、買い物をしたお店がまだ両替をしていない場合は、円で支払ったにもかかわらず、
おつりをドルでもらうような事もありました。
お店は品物の値札がドルのままなので、店員はドル/円の換算表をみながら会計をしていました。
道路の制限速度標識は、マイルからKMに変り、車のナンバープレートは沖縄ナンバーに変わりました。
しかし、車の速度メーターはマイルのままなので、換算表が運転席にはられていたりしました。
車の右側通行は復帰後はしばらくそのままで本土と同じ左通行になるのは、6年後の昭和53年7月30日です。
1号線とよばれていた那覇港から普天間や嘉手納などの米軍基地にのびていた軍用道路が国道58号線に変りました。
中央分離帯も歩道も無かった大きな道路が復帰後から整備され街路樹なども植えられてきれいになってきました。
このように、沖縄が祖国復帰を果たし、米国支配の日常があらゆるところで、急速に祖国日本の日常へと変わっていったのです。
これは、歴史的に誇れる事件でもあったし、日本にとって「戦後」の終了を意味する大きな出来事であったと思います。
■消えた!復帰記念メダル
このように、様々な沖縄祖国復帰に関しては様々な事業があったのですが、復帰を喜ばない勢力によりもみ消されようとして
いた事があります。
それは、小中学校への「復帰記念メダル」の配布です。
<写真:沖縄復帰記念メダル>
裏の日の丸の下には、「内閣」と記載されています。
これは、日本政府から沖縄の子供たちへのプレゼントだったということです。
このプレゼントを子供たちに渡す事を阻止した勢力がいたのです。
下記にあるブログに記載されていた琉球新報の記事を転載いたします。
復帰から9年後の新聞記事ですが、聞き捨てならない事実が書かれています。
<復帰記念メダル>
http://www.campus-r.com/naohiko20060701.html
総理府では、昭和47年5月15日付で屋良主席宛に、5月15日の復帰の日に市町村教育委員会を通して、沖縄の小、中校児童約20万人に
復帰記念メダルを配布するよう正式に通知した。メダルは銅製。直径3.2センチ。裏側中央に国旗を描き、上辺に「祖国復帰おめでとう」、
下方には「昭和47年5月15日」を刻み、国旗の下に「内閣」の文字。表は「守礼門」を中心として、周囲に海をあしらった波形がデザイ
ンされている。ところが「核付き返還!屈辱の日」として、沖縄教職員組合は配付に反対。各分会に対しても、配布に非協力体制をとる
よう指示。当時の児童生徒は小学校233校、12万449人。中学校149校、7万1144人。宮古、八重山、本当北部地域では、校長を通して
配られたものの、那覇や中頭郡では現場の反対で約10万個が宙に浮いたまま回収された。
那覇の場合は、教育委員会が受け取りを拒否した。
この10万個のメダルは教育委員会の倉庫に今なお眠ったままで、取り扱いに苦慮している。
<昭和56年5月15日。琉球新報>
(転載おわり)
■今からでも遅くない、復帰記念メダルを配布せよ!
驚くべき事実です。
沖縄の祖国復帰を屈辱の日として児童に記念メダルを配る事を拒否したというのです。
那覇市が最悪で教育委員会事態が受け取りを拒否したとの事です。
残念な事に私は那覇の小学校に通っていましたので、この復帰記念メダルを手にする事はありませんでした。
この事件により処罰された人が一人もいない事が不思議です。
今、このメダルはどこにあるのでしょうか?
教育委員会の誰かがスクラップ屋さんに売り飛ばしていない事を祈るばかりです。
取り扱いに苦慮しているとの事ですが、やるべき事は決まっています。
このメダルを本来渡すべき人に渡すことです。
当然です。
当時の小中高生の名簿を調べて、現住所を調べて、40年ほど遅れた事を謝罪をしながら配布して
いただきたいものです。
是非、これを沖縄県教育委員会に要求していく運動を起こしていきたいと思います。
また、沖縄の教職員が生徒への配布拒否した事を看過した文部科学省の責任も追求するべきだと思います。
(仲村覚)
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絶対に赦される行為ではありません。
是非転載させてください。
コメントありがとうございます。
是非、拡散よろしくお願いします。
今更、40年前の昔話のように感じられる方もいるかもしれません。
しかし、今の沖縄問題は、復帰の時のボタンの掛け違いが年が経つに従い大きくなってしまったものです。
もういちど、祖国復帰の原点にかえって、しきり直しをする事が日本再建の近道だとわかってきました。
今後ともよろしくお願いいたします。
http://www.campus-r.com/naohiko20060701.html
では
「この記事から25年経った今、伝え聞くところによると(宙に浮いた)メダルは、その後、青年の家や少年自然の家など公的施設に配布されて、そこで開催されるイベントの賞品として利用されているそうな。
玉寄美奈さんが木登り1等賞でもらったのは、これだったのである。」
と書かれています。
日附は2006年 7月6日。
このブログは2011年に書かれていますので5年経っていますので「このメダルを本来渡すべき人に渡すことです。」は無理ではないでしょうか。
おっしゃるとおり無理だということは承知していますが、税金で作成したメダルを賞品として利用するとは言語道断です。
無理なら、何故無理なのかを明らかにし、関与した責任者を処分するべきだと思っています。
可能なら、これからでも告発して裁判の場に引き出すべきだと思っています。
復帰の時、わたしは幼稚園でしたから
貰えなかったんですね残念です。
これからも真実の沖縄を発信し続けて下さい
応援しています