ジロがゆく

なんとなく生きてます

小石の音

2021-02-22 15:28:08 | 日記
 よく繁った森の中の、平坦な尾根道を歩き続ける単調さに倦み疲れ、渓流を目指してさほど深くはない谷を降って行きました。
 降り立ったところは、細い渓流が、広めの渕を形成している川原でした。川原には大小の岩が散在し、それらの間はこぶし大の小石で埋められていました。渕の上流側には低い段差があり、数個の大岩の間から小さい滝が白く流れ出していました。その辺りの左側の岸辺には、根元に大きい洞を抱えたトチの大木が立っていました。その洞には、きっと、冬の間ツキノワグマが籠っていたに違いないと思われました。両岸の川原が切れる辺りには、深い雪の重みに抑えつけられたと思われる枯れ草の群れが圧し潰されたままの状態で横たわっていました。狭い渓間でしたが、両岸の森の頂きの辺りが広く切れているせいで明るく、初夏の陽の光がたっぷりと射し込んでいました。少しもやがかかっているのか、まだ若葉色の濃い森を背景に、淡い光の帯が斜めに見えていました。椎の木とおぼしき梢の先には、薄いクリーム色がかった花の群れが霞み、無数の蜂が飛び交っていました。渓間には、温かい陽気と、無数の虫の羽音が満ち溢れているようでした。
 小石の川原に、テントとシュラフを詰め込んだザックを下ろして両足を投げ出して坐り、眠気を催すようなのどかさにしばらく全身をゆだねていました。身内の固いシコリがゆるゆるとほぐれてゆくを感じました。
 渓の上から見下ろすと、きっと木の間越しにわたしのベージュ色のベストが見え隠れしていることでしょう。さらに上昇してゆくうちに、よくテレビの画面に映し出されるように、わたしの姿はたちまち見えなくなって深い原生林の広がりのみの眺めになり、そのうち、日本列島を俯瞰し、さらには五大陸と五大洋の影を映した地球儀が宙に浮かび、ついには地球が漆黒の闇に小さな青い星となって見えるようになることでしょう。わたしは現にここにいるのに、家族はおろか、誰にも、あるいは地球にさえ、わたしが今ここにいることは知られていない、などと、幼稚な想像を楽しんでいました。

 何気なく右手の下にあった小石を掴んで、渕の方へ放り投げてみました。水面にノタリといった風情で小さな水しぶきが立つのが見えました。ただ、その、眠たげな音が気に入りません。そのうち、立ち上がって石を拾い上げては、渕のあちこちに、高くあるいは遠く投げてみました。いつしかむきになっていましたが、相変わらず景気のいい音は聞こえてきませんでした。
 そこで、今度は、小石だらけの川原に踏ん張り、大きな岩目がけて力いっぱい投げつけてみました。子どものころから聞きなれた、硬く乾いた音が聞こえてくるに違いない、そうすれば大人げないこの身の気が済むに違いないと思ったからです。小石は確かに岩にぶつかり、思いがけないゆっくりとした速度で跳ね上がるのが見えました。激しい音が聞こえるはずなのに、その音も、そのこだまも耳には入ってきませんでした。それまで気にすることのなかった渓流の音、虫たちの羽音、風に揺れる森の葉音が急に聞こえ始めました。さては、小石の音は、これらの音にかき消されて聞こえなかったのかと思いましたが、もう一度試すことはできませんでした。投げた瞬間、肩に痛みが走ったからです。何とも納得し難いまま、肩をさすりながら、しばらく、記憶の中の、あの懐かしい音を思い出そうとしていました。しかし、その音がよみがえることはありませんでした。

 その時から十数年たった今でも、その不思議な思い出を反芻することがあります。記憶の中で、小石が岩にぶち当たるときの音を如実に聴こうと努めてみますが、やはり聞こえることはありません。もはや、大きなザックを背負ってあの深い森へ分け入るほどの体力もありません。あの音は、あの川原での音でなければなりません。夢の中ででもいいから、聞いてみたいと、切に願っています。

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