さて、前回の記事まで三惑の内容について振り返りをしてみました。その中で見思惑のなかには「四諦に迷う」とあり、その四諦の中の道諦で「八正道に迷う」という言葉がありました。ではこの「八正道」とは何なのか。その事についてすこし書いてみます。
◆八正道
八正道とは「涅槃に至るための8つの実践徳目」と言い、以下の八つの事だと言います。
①正見
「正しく眼の無常を観察すべし、かくの如く観ずるをば正見と名づく。正しく観ずるが故に厭を生じ、厭を生ずるが故に喜を離れ、貪を離る。喜と貪とを離るるが故に、我は心が正しく解脱すと説くなり」
先ずはこの世界が無常であることを観察しなさいと言い、それが正見だというのです。ここでいう「無常」ですが、日本では「侘び寂び」のいち分として無常を認識してます。しかし無常とは、そもそもこの現実世界というのは変化が激しく、恒なるものは何一つないという変化の激しさを表す言葉だと言われています。恒なるモノが一つもなければ、この世界には「厭を生じ」とありますが、本来は執着すべきものは無いと理解出来るだろうし、さすれば目の前の出来事に一喜一憂すること無く、ここでは「解脱」と言っていますが、自身の心を正しく見る事が出来ると言うのです。
②正思惟
正思惟とは「正しく考え判断することであり、出離(離欲)を思惟し無瞋を思惟し、無害(アヒンサー)を思惟することである。」と言います。
出離とは世俗的な事から離れる事であり、財産・名誉といった社会的に重要とされている事や、感覚器官に快楽を求めると言ったものから離れる事を言い、無瞋とは憎しみや自己愛や憤怒を無くす事、また無害とは自分にとって邪魔な相手を排除するという攻撃心を無くす事だと言います。
これらは社会生活の中で起きる様々な事を排除して、自分自身を正しく評価判断する為の思惟(思考)を指していると思います。
➂正語
正語とは「妄語(嘘)を離れ、綺語(無駄話)を離れ、(陰口,仲違いさせる言葉)を離れ、粗悪語(誹謗中傷,粗暴な言葉)を離れることである」と言います。
先の二つは極めて内省的な働きをしていますが、こちらについては内省的な側面もありますが、対他者に対する応対についても述べています。人は言葉でコミュニケーションを取りますが、人から得る様々な言葉で、何を自分自身として受け入れ、また他者に対してどの様な言葉を伝えるのか。そこについて、しっかりと自分自身の心で制御しなければならないという事でしょう。
④正業
正業とは「殺生を離れ、盗みを離れ、非梵行(性行為)を離れる事をいう。」と言います。
業とは「行い」という事でもあり、正しい思惟(思考)と正しい言葉を使い、それと共に行いもしっかりと律する事を言っているのでしょう。
⑤正命
正命とは「道徳に反する職業や仕事をせず、正当な生業を持って生活を営むこと。」と言います。
生活を営むという事は、社会生活においてもしっかりと律した生活を営むことを述べています。
⑥正精進
正精進とは「四正勤、すなわち既に起こった不善を断ずる、未来に起こる不善を断する、過去に生じた善の増長、いまだ生じていない善を生じさせる。」と言います。
ここで精進と呼んていますが、つまり継続して、過去の正しくない事を戒め、常に善なる事を意識して生活するたいう事を述べています。
⑦正念
正念とは「四念処に注意を向け、常に内外の状況に気づいた状態でいる事」と言います。四念処とは、仏教では悟りに至る観念法と言われ、身体の不浄を観じる(身念処)、一切は苦であると観ずる(受念処)、心の無常を観ずる(心念処)、諸法の無我を観じる(法念処)の四つの観念法言います。
ここでは観念法を常に心に置いて生活していく事を述べていますが、これは常に心を律して、その心の有り様についても意識をすべき事という事だと思います。
⑧正定
これは正しい集中力を完成させることを言い、先の正念によって初めて得られると言われています。
以上が八正道の中身です。
かなり端折った説明でしたが、ここから見える事は、仏教がこの世界を正しく認識、理解する事を求めたものであり、そこから自身の心を見つめ、心を律して生きていく事を教える内容だという事ではないでしょうか。
この八正道とは四諦のうちの道諦、つまり「生き方の真理」として、初転法輪(釈迦の初めての説法時)に説かれた内容と言われていますが、初期に説かれた事だからこそ、仏教の大事な原理原則の一つであると考えても良いでしょう。
創価学会を始め、宗門もそうですが、天台教学にあり日蓮も好んで使った「未顕真実」の言葉により、こういった仏教の基礎的な教えを軽視していますが、本来であればこれらの基礎教学について学び、自分のものとしてしっかりと考える事が大事な内容を軽視していますよね。だから結果として彼ら宗教屋から、うまく利用されているのかもしれませんね。
(続く)