自燈明・法燈明の考察

創価学会が本来信じるもの①

 ちょっと今回は創価学会の教学について、横やりを入れてみたいと思います。2014年11月8日に「世界広布新時代」とぶち上げ、その一層の発展のために「創価学会教義条項」を改正したのは、知る人は知っている事でしょう。しかし私が見る限りにおいて、創価学会組織の支部や地区といった、いわゆる「現場組織」には、こういった内容はほとんど下りていません。もう改正して七年近くなりますが、現場の活動家幹部達は「選挙」には一生懸命であっても、宗教の骨格である教義には何も興味が無いといった処なんでしょう。未だに大本尊に恋慕する人も居れば、出世の本懐が大本尊の建立と思っている人達が多くいます。日寛教学を「今後立て分ける」なんて理解している人は皆無です。

 そんな状態で、この事には誰も疑問に思わないのでしょうか?
 やれやれ、、な感じですね。



 創価学会で会員に教えている(であろう)中心教義は「「宇宙と生命に内在する根本の法」すなわち南無妙法蓮華経が根本であり」という事と、「それを書写した本尊は、全て根本の法である南無妙法蓮華経を具現したものであり」とあります。これは創価学会が2015年1月29日に聖教新聞4面に掲載した「会則の教義条項改正に関する解説」に記載されている文言です。

 法華経については、創価学会は根本の法である南無妙法蓮華経が文底に沈められている経典とも教えていたりしますが、そもそも南無妙法蓮華経という題目は「全ての根本の法」という類のものなのでしょうか?

 創価学会ではこの「法」について「決まり事」の様に教えています。これは過去に「罰」という説明で交通事故を例えにして、道路交通法を守らなければ事故に合う。生命の法則に反すれば不利益を受ける。これが罰である。なんて言っていた事から解ります。

 法華経の肝心と言えば、日蓮も開目抄に書いている様に、一念三千の法門ですが、これは人の心の形を表したものであって、法則というものではありません。
 これはとても基本的な事ですが、仏教でいう法とは「ダルマ」と呼び、法則・真理、教法・説法、存在、具体的な存在を構成する要素的存在などのことを指します。だから私は一念三千を「心の形」を表現したものであり、法則というよりも、ありのままの姿(実相)と言うべきものだと考えての事です。
 だから創価学会としては南無妙法蓮華経こそ、その実相であり、それを具現化したのが日蓮の文字曼荼羅(御本尊)だと言いたいのかもしれません。

 でもそうであれば「宇宙と生命に内在する根本の法」という言葉自体、もう少し見直すべきですね。先の道路交通法に例えた話をしたり、生命という単語を使い、根本の法なんて呼んで見ても、何を言っているのか曖昧模糊でさっぱり判らないでしょう。その昔「有名無実(名前だけあって実がない)」という四文字熟語がよく使われていましたが、まさに創価学会の教義とは有名無実なものだと私は思っています。

 そもそもの話ですが、「南無妙法蓮華経」とは何なのでしょうか。この題目をそのまま直訳すると「妙法蓮華経に帰命する」という事で、妙法蓮華経という経典を信じますという事ですよね。この題目というのは、もともと天台宗の勤行の中で「南無釈迦牟尼仏」「南無多宝如来」とともに「南無妙法蓮華経」とあったものであり、日蓮はそれを法華経の肝心だと考えました。そしてそこにどの様な意義があるのでしょうか。

 教学的に少し掘り下げたのは、過去の記事「唱法華題目抄②」で書いていますので、ここでは割愛します。

 この御題目の事をざっくりと解釈しれば、「妙法蓮華経」に説かれている意義(本義:本来の意義)を信じて自分自身の人生を生きる事を指す言葉であり、それは「仏も自分自身も、そして他の人々も、共に同じ存在であり決して別々の存在ではない」という思想に基づき、この娑婆世界と言われる現実世界を生きる事を指すのではないでしょうか。

 この娑婆世界には様々な人や人以外の存在も同居します。そして娑婆世界で生きるとは喜怒哀楽様々な感情が揺さぶられる事もあり、決して楽しい場所では無いかもしれません。しかし人々はこの世界に生まれてきた訳です。だから自分の心の中に目を凝らして行けば、法華経には「久遠実成の釈尊」という存在で説かれていますが、そこに自分自身でも信じる事が出来ない様な自分の存在意義があるという事ではないでしょうか。
 人は苦しくなると、自分自身を卑下し否定ばかりしてしまいます。苦しみの中でも自分自身を肯定できる人は皆無でしょう。そしてこの人生の意義すら見失ってしまう人も多くいますが、それに対する「アンチテーゼ」とも言うべき事が、この法華経の意義なのかもしれません。

 法華経の意義に「帰命する」。つまり信じるという事の意味とは、そういった事であり、それを端的に表しているのがお題目という事なのではありませんか?

 こういった事を認識せずに「御利益呪文」として唱えていたり、「選挙戦大勝利」なんて為に唱えていても、私は意味がないと思いますけどね。

(続く)


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