さて、勤行の時の読経の事から法華経で説かれた事、そして広宣流布までを考えて来たが、ここで法華経に説かれた事について少し考えてみたい。
広宣流布は法華経を広く宣揚し流布する事と述べたが、ではより具体的に法華経とは何を説いていたのか、そしてそれは私達の人生に取って、どの様な意味があるのかという事を理解できなければ、幾ら言葉で広宣流布と言ってもあまり意味を成さない。
ある意味、大石寺の教えを安易に受け入れて来た創価学会や顕正会の広宣流布観というのは安易なものだ。法華経の教えの事は脇に置き、何だかよく解らない法華経というお題目を唱える人達を増やす事が出来れば広宣流布は事足りると考え教えていたからだ。だから教団としては自分達の「仲間」を増やす事が、さも釈迦が’(大石寺では釈迦は迹仏なので日蓮大聖人か)述べた広宣流布だと信じ、組織の拡大にひたすら走り続けてきた。しかし当然の事、そんな事は広宣流布でもなんでもなく、単なる夢想でしかなかったのだ。これは奇しくも創価学会が戦後の日本や世界で行動してきた結果を見れば明らかである。
現に公明党が政権与党入りするほどに創価学会が興隆すれば、日本や世界が平和で安穏になると創価学会では教えてきたが、今世紀にはいり日本で公明党が政権与党入りしてから四半世紀になろうとしている現在、日本はOECD加盟国の中で、当初はGDPは3位であったものが現在では22位。国内では少子高齢化と年金制度が崩壊を始め、また景気の悪化や移民の流入なども増加する中で治安が悪化してきているのが明白ではないか。要は組織拡大・教勢拡大が広宣流布だというのは、まったくもって効果が無い事が、彼らの好きな言葉である「現証」で明白になったではないか。
しかしこの事を言ったところで日蓮正宗や顕正会は納得しない。創価学会は既に邪宗だから拡大すれば国がめちゃくちゃになるのは当たり前ではないかと言うだろう。しかしそもそも日蓮正宗は七百年の歴史があると言いながら、創価学会ほど組織拡大もできていないえはないか。また顕正会に至っては、膨大なバブル会員を増やしていても、実体としてはやはり創価学会には及ばないのである。
ただしこれらの事は、日蓮の言葉が淵源にもなっていると言われても否めない。日蓮の御書には以下の言葉がある。
「万民一同に南無妙法蓮華経と唱え奉らば吹く風枝をならさず雨壌を砕かず、代は義農の世となりて今生には不詳の災難を払ひ長生の術を得、人法共に不老不死の理顕れん時を各々御覧ぜよ現世安穏の証文疑い有る可からざる者なり」(如説修行抄)
しかしながら例えばこの如説修行抄にあっては、近年、偽書の疑いすらあるものとされている。だからこれを以って安易に「お題目を唱える人が増える事で世の中が良くなる」という思想を日蓮が持っていたという事については、やはり考え直さなければならないだろう。
とはいえ、この様な日蓮の御書(御遺文とも言うが)の真書・偽書問題というのは、過去からあった事ではあるが、近年になり取り沙汰され始めた事である。
例えば明治後期あたりから起きてきた日蓮思想に対するムーブメント。例えばそれは国柱会の田中智学であったり、二・二六事件の思想家として語られる北一輝であったり、また「世界最終戦争論」を語った帝国陸軍将官の石原莞爾といった、明治から大正、そして昭和にかけた日蓮信奉者たちは、恐らくその様な事はあまり理解していなかったと思われる。彼らは当時、日蓮宗各派に伝承されたその様な日蓮の「言葉(御書など)」により触発を受けて、様々な思想や持論を構築し一世を風靡するに至ったのである。
この様な事を考えたとき、果たして今残されている日蓮の言葉にどこまで「信」を置いて良いものか、判らなくもなってくるし、この当時の彼らが日蓮の真意を知らずにこの様な思想性を持ってしまった事を単純に責め立てる事も難しいだろう。これはある意味、創価学会とて同じかもしれない。もしこれらの事を責めるというのであれば、日蓮の弟子である六老僧を始め、偽書の多くを紛れ込ませた日蓮門流の門弟達が責められるべきだろう。
これは私の考えだが、日蓮の言葉で現在に於いても真書として取り上げてもよいものは、いわゆる五大部(これは堅樹院日寛師の選定とも言われているが)で立正安国論、開目抄、如来滅後五五百年始観心本尊抄、撰時抄、報恩抄、あと唱法華題目抄や種種御振舞御書くらいではないだろうか。しかしながら石原莞爾などは撰時抄の一説「国主等其のいさめを用いずば鄰国にをほせつけて彼彼の国国の悪王悪比丘等をせめらるるならば前代未聞の大闘諍一閻浮提に起るべし」を引用し、世界最終戦争論を構築した事を考えると、その文言の解釈にも十分に気を付けなければならないだろう。まさに日蓮が「かかる日蓮を用いゐるともあしくうやまはば国亡ぶべし」(種種御振舞抄)なのである。
いろいろと書いてみたが、要は法華経の意義について、単に現在残されている日蓮の言葉だけで語ることは難しいと思えてならない。ただ日蓮の御書にある言葉の中には、天台大師を始めとした過去の大乗仏教の人師や論師の言葉もあり、法華経などの経典の言葉もあるので、そこを手掛かりとして少し考えてみたいと思う。
まず法華経が何故、大乗経典で一番優れているのか。そこについて日蓮は開目抄に二箇の大事として述べている。
「但し此の経に二箇の大事あり倶舎宗成実宗律宗法相宗三論宗等は名をもしらず華厳宗と真言宗との二宗は偸に盗んで自宗の骨目とせり、一念三千の法門は但法華経の本門寿量品の文の底にしづめたり、竜樹天親知つてしかもいまだひろいいださず但我が天台智者のみこれをいだけり。」
「華厳乃至般若大日経等は二乗作仏を隠すのみならず久遠実成を説きかくさせ給へり」
この二箇とは一念三千の法門と久遠実成の二つの事であるが、これが法華経独自の法門と言ってもいいだろう。法華経の展開としては前の記事にも書いたように、方便品第二で諸法の姿として十如是を示した事で、理論的な一念三千の要素は出そろった事になるが、この一念三千の真の姿はやはり如来寿量品の久遠実成が説かれる事で完全に顕されたと考えるべきだと思っている。そして譬喩品第三から展開された十大弟子等への成仏の記別(未来の成仏の約束)や法華経七喩の説話などは、その二箇の大事の傍証的な内容となっている。
法華経方便品第二では「諸法」の姿として十如是を説いていた。これに十界互具がかかわり百界千如となる。十界互具とは何を現わしているかと言えば、地獄から仏界に至るまでの各境涯は単独で語れるものではなく、それぞれの境涯が関連しあい、実際には私たちが生きていく中で境涯として現れる事を指している。日蓮は如来滅後五五百歳始観心本尊抄ではこの事を以下のように述べている。
「所以に世間の無常は眼前に有り豈人界に二乗界無からんや、無顧の悪人も猶妻子を慈愛す菩薩界の一分なり」
ここでは世間の様を見て無常を感じるのは、人の境涯の中の二乗(声聞・縁覚)であり、極悪人であっても家族を大事にする心は地獄界の中の菩薩界だと具体的に述べている。そしてこの境涯とは私たちの心の中の事であるが、それが実際に世間に出てくる様として十如是が説かれたのである。そして人はこの心の動きが世間に出てくる事によりさまざまな因果応報を受けつつ生きている事を明かしたのが百界千如であり、これと同じ事が社会的にも(衆生世間)また生活環境(国土世間)にもある事を指した教理、これが一念三千である。
しかしこの一念三千という事は、日蓮が独自に解き明かしたものでは無い。これは天台大師智顗が構築した教理であるが、実は天台宗の「魔訶止観」や「法華文句」には一切明かされてもいない。これは日蓮も観心本尊抄で冒頭に述べている事なので読んでほしいが、天台宗では内観行を行う際の指南(指導)として述べるにとどめていたのである。
そもそも仏教では娑婆世界とは苦悩の世界だとも説かれていたが、その世界と私達の心の「仕組み」をこの一念三千では示してはいるが、これはあくまでも諸法実相の上の諸法(現象の世界)の話である。では実相(現象を起こす大元)とはどういう存在なのか。そこを具体的に説きだしたのが如来寿量品の久遠実成という事なのである。
この話はもう少し続けていく。