久しぶりにこのブログを更新します。
最近の日本では「統一教会」と自民党議員との関係性で大騒ぎしています。それ以外でも安倍元総理の「国葬」でも揉めていたり、あとは新型コロナ禍も世界的に「ウィズコロナ」へと舵を取る中、日本だけは5類に落とす事への検討を止めつつ、国外からの入国規制を緩和するという、まるで「矛盾」を絵に描いた様な対応をしています。
それ以外にも私は創価学会に関与していたので書きますが、熊野議員のセクハラ問題で、被害者である女性(恐らく創価学会の女性部)からの告発について、当事者である熊野議員は「緊急入院・面会謝絶」の状況となっていますが、何でも熊野議員の家族は件の女性に対する法的対処を検討するとか、この不祥事をすっぱ抜いた文春社に対して公明党が訴訟をするとか、一体何を考えているのかという事が起きています。
まったくもってこの日本が、ここまで狂うとは私自身考えもしませんでした。
今日の記事はそんな狂った日本の事を書くのではなく、そんな狂った日本の中で、この世界をどの様に生きて行くべきなのか、少し最近、考えている事を記事にしたいと思います。お時間のある方はお付き合い頂ければ幸いです。
◆怒り渦巻く世界
こんな日本国内の状況を見ていると、やはり何かと「怒り心頭」になってしまう事が多々あります。かく言う私もツィッターやネットニュースの記事を見る度に、自身の心の中には「ふつふつ」と「怒り」の感情が沸き上がってしまいます。
私は「怒り」という感情を否定する事はしません。何故なら人は必要な時に「怒り」、その「怒りの原因」について思索をして、自分自身として「本来あるべく姿は斯くあるべきだ」という意見を持つ事も出来るからです。ただ注意しなければならないのは、この「怒りの感情」に縛られてしまう事です。「怒りの感情」に縛られてしまっては、実はそれ以外の大事な事まで見逃してしまったりするので、結果として自分の人生を損してしまいます。
だから大事な事は、このおかしな世界の中に対して「怒り」を持ったとしても、それとは別に「今生の自分の人生」について、しっかりと考える「冷静さ」を常に持ち続ける事ではないでしょうか。簡単に言えば「このおかしな世界に生まれた自分は、どの様に生きて行けば良いのか」という冷静な心を持つ事です。
日蓮の御書には以下の言葉がありました。
「涅槃経に云く「願つて心の師と作つて心を師とせざれ」云云」
この御書の言葉については、よく「我見を誡める」という様な解釈を創価学会や日蓮正宗はしていますが、私は日々揺れ動く「感情=心」に振り回されるのではなく、その心を自分自身で制御しゆく事の重要性を述べていると解釈しています。だから世情により揺り動かされる「怒り」の感情をも、自分自身の人生の上で人はしっかりと制御しなくてはならないと思うのです。
◆人生に対する認識を持つ
この「感情=心」を制御する為にも、やはり自分の人生について正確な認識を持たねばなりません。
私達は母親のお腹の中から「おぎゃ~」と生まれ出てから、「死」に向って日々進んでいる訳です。そして人はそれぞれの都合により、また生き方によって「死」が訪れるタイミングが異なります。
私の友人の中でも、中学生時代に不幸にも病気で亡くなった人がいました。ある人は二十歳で交通事故で即死してしまった人もいました。私の父親も既に鬼籍に入って久しいです。
人は長く生きていれば行くほど、この世界で「生きる」という事が、ある意味当然であり常態化します。そしてそれが惰性になっていきます。要は「昨日は何かと大変だった。今日も大変で、明日や来週、来月や来年も何かとあるんだろう」と、ついつい考えてしまいます。
しかし「死」というのは、どんな人であっても、ある日突然にやってきます。
それは交通事故かもしれない、病気かもしれない。老いの中でやって来るのかもしれない。しかし「死」はある日突然にやってくるのです。果たして目の前に「死」という影が現れた時、人は狼狽せずにそれを無条件に受容出来る人がどれだけいるのでしょうか。私は殆どの人が直ぐに受容する事は出来ないと思います。
精神科医で「人の死」を見つめ続けて来た、故・キュブラーロス女史は「死の受容過程」」という事で、人はこの「死」を受容するプロセスには以下の過程があると述べました。
・第一段階=否認。自分が死ぬという事を否定する。
・第二段階=怒り。何故自分が死なねばならないか、怒りを抱く
・第三段階=取引。死なずに済む様、神や仏等と取引する
・第四段階=抑鬱。何も出来なくなる
・第五段階=受容。死を受け入れる。
これをキュブラーロス女史は、人が死の過程で辿るものと定義しましたが、これは何も「死」だけではなく、自分ではどう仕様もない障壁にぶち当たった時に辿る心理過程であるとも言われています。まあ「死」というのは人生にとって一番の障壁である事には変わりなく、だからこそ人はこの過程を経験するのでしょう。
ただ出来れば、こういった過程で受ける心の揺れ動きを何とか抑えて、「死」を迎えた自分自身の人生を受容できる自分でありたいと私は思うのです。
考えてみれば、母親のお腹から生まれる前に「自分」は居ませんでした。「死」とは社会的に見れば、その状態に戻る事であり、自分自身の存在が居なくなるという事なのです。
私の場合、家族がいますし、ペットもいます。また日々仕事をしているので、様々な人と日々関係を持って生きています。そしてその生活の中では様々な物(物質)に囲まれ、様々な肩書を持って生きています。そして何より、そういった周囲の環境から受ける様々な感覚から生きている事を実感し、ふとそれが未来永劫続くと錯覚したりします。
でも今の「自分」はけして永続的に続く存在ではありません。どこかのタイミングで必ず「死」は訪れて、その時に私はこれらを全て手放さなければならなくなるのです。
まずはこう言った事を、日常生活の中で忘れずに過ごす中で、日々丁寧に生きて行きたいと考えています。
◆人生のタイミングについて
私も既に半世紀を生きてきました。個人的な勝手な計画では、あと二十年ほど生きてから死ぬ予定でいます。そこから考えると、日々の生活の仕方についても、そろそろ考えなければならないタイミングに来ていると思います。
飛行機の行程でも、「離陸⇒水平飛行⇒着陸」というものがありますが、今の私は「着陸」に向けてエンジンを絞り、高度を落とし、着陸態勢を取らなければならない年齢です。やはり自分自身の人生のタイミングを見定めて、それにふさわしい言動をしながら、日々の生活を丁寧に生きて行く時期に来ていると思えるのです。
日蓮は門下の四条金吾には以下の様に語り掛けていました。
「賢人は八風と申して八のかぜにをかされぬを賢人と申すなり、利・衰・毀・誉・称・譏・苦・楽なり、をを心は利あるに・よろこばず・をとろうるになげかず等の事なり、此の八風にをかされぬ人をば必ず天はまほらせ給うなり」
人生を飛行機に例えるならば、その中には「感情のさざめき」という風の様なものがありますが、風は飛行機の着陸にとって大事なものでもありますが、場合によっては着陸の事故を巻き起こしてしまいます。だから私はけして感情に揺り動かされるのではなく、それをも制御しながら、人生の着陸を見つめて生きて行く。そういう人生でありたいと思っているのです。
皆さんは如何思いますか?