自燈明・法燈明の考察

私が感じた創価学会の問題点①

 今日もチマチマ掃除をしようと思っていますが、その前に記事を書きたいと思います。今日は創価学会の事について、少し振り返りをしながら書いてみますので、お時間のある方はおつきあい下さい。

 私が創価学会の活動を止めてから、はや十数年経過しました。
 活動を止めた当初、やはり創価学会に対しての瞋恚というか、イラつきというのは物凄く自分の中に吹き荒れた時期もありましたが、最近では、はやりの「鬼滅の刃」でいうと、水柱の富岡義勇の水の呼吸にあった「凪」というところでしょうか。


 ただしこの「凪」も、ネット上の様々な発言や、各種報道の中身によっては「さざ波」が立つ様な事もたまにあります。そして何故「さざ波」が立ってしまうのか、そこには私自身が青年部時代に必死にやって来たという自負があるからかもしれません。

 地元の後輩幹部などは、いまの私を評して「我慢して学会活動をしてきたから、その不満が爆発している」と言っていますが、これは違います。我慢して学会活動をしてきたという事は、私には当てはまりません。単に我慢していた人間が、四半世紀近く創価学会につながりを持ち、青年部でも県幹部にまでなれるわけが無いのです。事実誤認も甚だしいのですが、それが今の私の地元での評価になっています。

◆青年部時代の私
 私は二十歳の頃に「班長」という役職を受けた時から、創価学会との関わりが始まりました。私自身は創価学会の「二世」という事になりますが、正直、未来部時代にはそれほど一生懸命やっていたという事ではありませんでした。
 しかし専門学校を出てから、自分の先行きが見えなかった事、また若い当時の自分自身の不甲斐なさを感じても居たので、そこを変えたいという事もあって、活動を始めました。

 始めた当初、日蓮大聖人の仏法とは何なのか解らず、御書を片手に慣れない古文を読みながら個人的に勉強をしていました。とにかく仏法という事を知りたかったし、勤行で読む法華経や、日蓮が文字曼荼羅を顕すまでに至った事について知りたかったという事がありました。だから先輩から言われた事は、とにかく何でもやってみようと思っていたのです。

 過去にTwitterで私に絡んできた人が「斎藤さんは家庭指導を回って来た事がありますか?」「折伏や下種をしてきた事がないでしょう」なんて事を言っていましたが、私が男子部活動を始めた当初、友人に対する対話数(実際に仏法対話をした人数)はゆうに百名を超えました。しかしそれでも入信決意なんてものは一つもありませんでした。とにかく友人に話をしても決まらない。学生時代の先輩と対話をした時に「お前の話は分かるが、お前自身の言葉になっていない!それはやらされているんだろ?」と厳しい叱責を受けた事もありました。また家庭訪問については、班長になってから、ほぼ毎日行っていました。当時は自家用車など持っていませんでしたので、雨の夜、徒歩で片道二十分歩いて一軒の男子部員に手紙を出してきた事もあります。

 班長になってから、私は自分自身に課していた事がありました。それは「嘘を付かない行動をしよう」という事です。当時は創価班大学校というものにも「半ば強制的」に入れられ、その研修会では折伏の事では、いつも厳しく追及されました。要は「一週間の間で何人に仏法対話をして、入信決意を幾つとったのか」を追求されるのです。同期の中では苦し紛れにでっちあげの活動報告をしていたメンバーもいましたが、私は常に正直に答えていました。
 当時言われていたのは、入信決意十で本尊流布一が取れる、なんて指導もありましたが、同期の大学校生の中で、始めてから半年で入信決意を一つも取れていないのは私だけだったのです。その事から「お前はやる気が無いんだろう!」「帰れ!」と何度も言われてきましたが、私自身、必死に友人にあって仏法対話を行い、時には先輩同伴で折伏もやりましたが、まったく私の友人は創価学会に入るそぶりも見せてくれなかったのです。

 まあ今から考えると、何という活動をしていたのか。そんな感想を抱きますが、自分自身を変えたい、仏法というのを知りたいという事だけで、恐らく同期の大学校の中では一番多くの友人と語っていたと思います。

 まあ詳細は割愛しますが、そんな創価班大学校生活をして十か月目で、ようやく折伏一世帯(本尊流布と呼んでいました)が出来て、それと共に自分の周囲の環境が激変するという経験をしました。これはいわゆる「信仰体験」という奴ですね。気が付けば題目をどれだけ唱えたか覚えていないのですが、仏壇の前の畳には、私の正座の跡がクッキリとつくほど唱えてもいたのです。

◆幹部への登用
 創価班大学校を卒業して間もなく、私は地区リーダーという役職を受けました。聞く処では区内最年少の地区幹部登用だったと言われましたが、当時の地区リーダーは、地区の責任者として地区活動者会を行ったり、とにかく男子部組織の最末端組織の責任者という位置づけでした。当時、少し前までは「大B長」と言われていたんですけどね。

 そこから私の役職人生も始まった訳ですが、地区幹部時代も先輩の記録を更新し、部長になっても同様に様々な先輩の記録を更新して行きました。部長になってから「任命書」というのが「創価学会人事委員会」から発行され、幹部コードというのが割り振られるのですが、部長になると生活のほとんどが創価学会というものに変わっていきました。

 この部長という役職は「支部」の「男子部長」という事で、統監数で百名前後の部員を持ち、地区数は四~五地区。つまり地区リーダは4名とか5名になる訳で、活動家も私の場合には常時十名から十五名いましたので、一端の幹部という事になります。しかし組織の最先端という事は、つまり問題も様々吹きだすわけで、日々、本部長や区男子部長に叱られっぱなしの立場でしたが、今から思えば仲間内でワイワイガヤガヤとやっていて、楽しい思い出が多くありました。

 本来は部長を二年から三年やった後、副本部長とか本部長になるのですが、この当時の私は、何故かある重鎮の県幹部から嫌われていて、この部長という役職を八年間近くやっていました。先輩からは「何故、斎藤は人事あがらないんだ?」と良く聞かれましたが、ある先輩からは「あ~、、〇〇さんはお前を嫌っているからかな」とも聞きました。しかし私は役職には興味も無かったので馬耳東風で、部長としてワイがや生活をしてもいたのです。

 当時、よく通っていた男子部員の奥さんとも仲良くなりましたが(変な意味ではないですよ。その部員の家に行くと、奥さんが晩飯をよくごちそうしてくれたのです)、その奥さんからも「斎藤君には彼女は紹介できないな」と言われ、その理由を尋ねると「忙しすぎて、彼女が居てもかわいそうになるだけ」とも言われたりしていました。確かに当時、私は仕事と学会活動だけの生活で、その他の事が、生活の中に割り込む余裕すら無かったのです。

 今から考えてみると二十歳から三十代前半までの、この時代が、私にとっての青春時代であったのかもしれません。でもそれは仕事と創価学会という二色だけの生活でしたが、何かとても充実していた事と、今でも思います。

(続く)


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