自燈明・法燈明の考察

日蓮と日昭について

 創価学会の活動を離れ、自分自身で立正安国論を読んでみた結果、そこで私自身が理解した事は、創価学会の解釈、また日蓮正宗の解釈の何れも実は日蓮の本意とは違うのではないかという事です。

 これを言うと、創価学会には創価学会の主張が、日蓮正宗には日蓮正宗の主張があるので、言いたい事も出てくるでしょう。

 しかし私は思ったのです。そもそも広宣流布というのは、自分達の教えを広める事を指しています。日蓮正宗は賢樹院日寛師の教学を元にした教えを広め、創価学会では池田氏の語っていた内容を「池田哲学」として広める事を指しています。しかしこの「教え」自体が、実はいずれの組織であっても日蓮の述べていた事と乖離しているのではないか。しかも法華経とも何気にずれていて、何故そんな教えを広める事を法華経にある「広宣流布」という言葉で呼んでいるのか。もし広めると言うのであれば、もっと広める内容(教義)について、真摯であるべきではないのかと。

 この立正安国論を読んでから、当時の私は座談会で御書講義を偶にお願いされる事もあったので、この理解した内容を散りばめて講義をしました。でもその感想は「何か上滑りをしている」というものでした。

 これは恐らく御書や教学と言うのが、今の創価学会に於いては単に「刺身のツマ」程度の添え物にしか過ぎないのだろうと言うこと。彼らはそれよりも選挙や聖教新聞の拡販、また新規会員の獲得にしか興味が無いのだろうと実感したのです。

 こんな経験から、私の中では創価学会に対する愛着というか、拘りがどんどん薄れていきました。そうであれば、やはり個人として、この日蓮や仏教というものに取り組むしかないと言う考えを深めて行ったのです。



◆日蓮と日昭について
 私が立正安国論を読んだ時、不思議に思った事があります。日蓮はどうして最明寺入道時頼に対して、この立正安国論を提出出来たのでしょうか。

 確かに日蓮は当時の最高学府とも言える比叡山延暦寺で修学し、阿闍梨号を得ていた様です。これを現代風に解釈したら、東京大学の博士課程を卒業し、仏教学の博士号を得たような立場であったと思います。これはこれでとんでもない事であり、地元の安房小湊あたりではそれなりに話題となった事でしょう。

 とは言え日蓮は自身も述べている様に、「旃陀羅が子」の出自であり、身分も高いわけではありません。そんな日蓮が易々と時の幕府の最高実権者である時頼に意見書をどうやって出す事が出来たのか。そこが不思議でならなかったのです。

 そんな事をふと考えた時、実は私の目に止まったのが日昭師の存在でした。

 日昭師は嘉禎2年(1236年)~元亨3年3月26日(1323年5月1日)に生きた鎌倉時代の僧であり、日蓮の高弟の六老僧の一人です。1236年の生誕という説もありますが、1221年生まれで師の日蓮よりも一歳年長であったとも言われています。
 日昭師の出自についても諸説あり、伝記本によって両親や出世年なども異なっています。「日蓮宗宗学全集 第19巻」にある「玉沢手鏡」によると、日昭師は下総猿島郡印東領(現在の茨城県坂東市近辺)と言われ、父親は印東次郎左衛門尉佑照、母親は印東大和守佑時の娘と言われていますが、事実はどうかは未だに確定していません。
 日昭師の(兄)印東祐信は御所の桟敷を守護する役をしていましたが、その縁もあってか日昭師は摂政左大臣兼経(1210年~1259年)の猶子となっています。猶子とは兄弟・親類や他人の子と親子関係を結ぶことで、おもに、仮親の権勢を借りるためでした。一族の結束を強化することにもなるのですが、平安期より貴族社会を中心に行われ、鎌倉期には武家でもおこなわれていました。

 先の「玉沢手鑑」によれば、日蓮と日昭師は同じ時期に比叡山延暦寺で修学していたと言われており、『本化別頭仏祖統紀』によりますと、日昭師は建長元年に地元の寺にて出家し、すぐに比叡山に上ったとあります。ここで尊海を師僧として修学し、建長五年の春に十八登壇受戒します。そして日昭師の慈覚・智証大師の理同事勝を破折する思想を聞き、師の尊海から日蓮と同じ徒党であるかを問われ、このときはじめて日昭師は日蓮の存在を知ったとあります。また日昭師は比叡山で若くして権律師の僧位僧官を得を得ていた様ですが、比叡山でもとても優秀な僧であり、その事もあってか、先にある様に摂政左大臣兼経の猶子にもなれた様です。

 この日昭師が日蓮の弟子となったのは、建長五年に当時の松葉ケ谷を日昭師が訪ね、そこで日蓮より「日昭」という名前を頂いたという事が「本化高祖年譜」「本化別当仏祖統記」ともに共通した記述である事から、その様に入門したという事は、ほぼ間違いないと思われます。

 しかし先の「玉沢手鑑」にある事を考えてみると、日蓮と日昭師の関係とは、表向きは「師僧とその弟子」となっていますが、恐らく比叡山で既に日昭師は日蓮と知古を得ており、日蓮が鎌倉で活動を始めた時に、今で言えばベンチャー企業の共同経営者という様な立場に居たのかもしれません。実際に日蓮が鎌倉で活動を始めた時には、既に下総方面で富木常忍等の人脈を得ていましたが、この下総とは日昭師の地元でもある事から、松葉が谷で日蓮の下に入門したという以前から、日昭師と日蓮は交流があった事も考えられます。

 また日昭師が摂政左大臣兼経の猶子であるという立場は、日蓮が幕府との人脈を広げる上で、とても重要な役割を持っていた事も考えられるのです。

◆六老僧の関係性の再考
 この様に日蓮と日昭師の関係を考えてみた時、後世、日興師の門下が記述した「五人所破抄」によって、「五一相対」なるものが言われ始め、日興師一人が日蓮の正統後継者であり、他の五老僧が「師敵対の裏切り者」の様な話についても、再度見直しをする必要がある事も感じました。

 例えば「五人所破抄」には以下の記述があります。

「五人武家に捧ぐる状に云く[未だ公家に奏せず。]天台の沙門日昭謹んで言上す。」

 と、ここで「天台沙門日昭」と言っている事を、とんでもない師敵対の発言であるかの様に言われていますが、日昭師は先にも述べましたが「権律師」という天台宗僧侶の資格官位を持っていました。その事については日蓮も生涯にわたる中で一度も責めたてた事はありません。また立正安国論の日興師の写本に於いても「天台沙門日蓮」と書かれている事が最近になり解ってきました。
 いまでこそ「日蓮宗」「日蓮正宗」と呼んでいますが、日蓮が没年当時、まだ日蓮宗という様な宗派が確立されていない事から、門下で「天台沙門」と語ったとしても何も問題が無いと思います。現に当時、宗派として「天台宗」は広く認められているものであり、日蓮自身も「天台沙門」と名乗っていれば、六老僧が「天台沙門」を名乗ったとして、何が問題だと言うのでしょう。

 この「五一相対」については、創価学会を始め日蓮正宗でも、未だ平気に「裏切り者の代表格」の様な事で引用されていますが、そんな事では日蓮の実像を理解する事は、とても難しいと私は思ったのです。


クリックをお願いします。

名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

  • Xでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最新の画像もっと見る

最近の「私の思索録」カテゴリーもっと見る

最近の記事
バックナンバー
人気記事