自燈明・法燈明の考察

立正安国論について【まとめ②】

 諸天善神とは、人の心にある「善性」が外面に現れたものだとして、それと法華経がどの様に結びつくのか。そこについて私が考察した内容についてまとめてみます。

 日蓮は開目抄の中で法華経について以下の様に述べています。

「但し此の経に二箇の大事あり倶舎宗成実宗律宗法相宗三論宗等は名をもしらず華厳宗と真言宗との二宗は偸に盗んで自宗の骨目とせり」
(開目抄上)

 ここでいう「ニ箇の大事」とは、一つは「二乗作仏」の事であり、もう一つは「久遠実成」の事を言います。では何が大事だと言うのか、まずはそこについて考察してみます。

二乗作仏について
 ここでいう二乗作仏とは、声聞や縁覚という二乗の人たちを言います。大乗仏教ではこの二乗の人達は徹底して成仏する事が出来ないと嫌われていました。「君は二乗根性が強い!」なんて創価学会では教学を研鑽する人を軽んじたりしますが、大乗仏教で何故二乗が嫌われていたのかと言えば、それは独覚と言いますが、自分自身の悟りに固執して他者を顧みないという二乗(いわゆる学識系)の特質性を嫌っての事でした。

 けして学ぶこと、思索することを嫌っての事では無いのです。

 法華経に於いて二乗の代表格である舎利弗をはじめ、目連等に次々に未来に於ける成仏の約束が為されました。これを二乗作仏と呼んでいます。なぜ今まで成仏は絶対に出来ないと云われた二乗達が、成仏を赦されたのか。それには二乗の人達が、釈迦が説法してきた想い、また最終的な目的を理解したからだと思います。その代表的な事が、舎利弗が譬喩品第三で述べた「三車火宅の譬え」に現れています。要は仏教の真の目的は、我利我利の悟りを得ることでは無いという事を、二乗の彼らは理解したからでしょう。

 人は自分自身の事を大事に考えたとしても、他者に対しても同様かそれ以上の重要性を感じ取らなければならない。二乗作仏とは、そんな事を指し示していると思うのです。

久遠実成について
 この事についてはこのブログでも幾度か取り上げてきましたが、久遠実成が指し示す事は、自分と他者は共に同じ存在であるという事です。例えば始成正覚(この世界で悟りを得た釈迦)は、実は根源的に既に開悟していた。という事を述べると共に、そんな事であっても恒に悩み、苦悩しながら法を求め、菩薩として久遠の昔から生きてきた事を明かしました。と共にこの世界にいた諸々の仏の姿としても現れ、人々に法を説いてきたと言います。また始成正覚の釈迦の前世において、その彼に法を説き教えた燃燈仏も、実は久遠実成の釈尊の姿である事を明かしているのです。

 ここで見えるのは、この世界の全ての人々は、共に久遠実成の釈尊が、姿や立場を変えながら現れた姿であって、見える姿や形、立場や行動が異なっていても、それらは全て久遠実成の釈尊の振る舞いだとも言えるのです。

 こうなると人種や民族、国の違いはあれども、全ての人々は根源的には同じ存在から派生したものであると言う事にもなり、これら様々な違いはあれど、ともに尊重され理解し合える筈なのです。そしてこれこそが、人の心の姿から見た、人間としての真実の姿であると示したのか、この久遠実成と言う教えなのです。

法華経を中心に据えるという事
 この様な思想を中心に据え、人々が互いにそれぞれを理解した社会であれば、自ずと人々の心の中にある「善性」も強まる事になり、結果として社会の中には様々な諸天善神の働きが出てくる。それによって国は安寧になっていくというのが、実は立正安国論のテーマなのでは無いかと私は思いました。

 考えて見たら人々は様々な事で分断されます。それは国であったり、人種や民族であったり、若しくは家系や出自による分断もあるでしょう。もしかしたら宗教によっても分断されます。そしてその分断とは恒に他者との区別があり、自分は自分。他人は所詮他人なんだという心が根底にあります。

 しかし他者と自分、区別はあれど共に同じ心の土壌から生まれて来ていると心底から理解が出来たら、恐らく他者に対する想いや行動も異なって来るのでは無いでしょうか。そしてそれを「仏教の経典」として示しているのが法華経であり、それを理解する事が、本当の意味での法華経を理解することだと、私はこの立正安国論を読み直し、思索することで考える様になりました。

 そうなると単に鎌倉時代の言葉を教条的に振り回して語るものでもないし、単に漢字の羅列した経典を読誦して、南無妙法蓮華経とマントラ(呪文)の様に唱えることで、国が安泰になると言う事でも無いと思います。

 私はこの法華経の世界から人々が自分自身の事を考え、見直しすべきだと思いますし、もしこの現代に法華経を広めると言うのであれば、この事を如何に現代の社会の思想潮流に出来るのかを、真剣に考えるべきだと思います。「四俵の静謐」なんて言葉を使い、単に党利党略、組織益の維持発展を考えているのは、法華経の思想から逆行しているに他ならないのです。

 私はこの様に考えたのですが、皆さんは如何思いますか?






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