自燈明・法燈明の考察

この時代に立正安国論について考えてみた②

 ちょっと間隔があいてしまいましたが、立正安国論について続けていきます。

 立正安国論を読む際、やはり日蓮の実像を理解をしておく必要があります。日蓮は安房小湊(現在の千葉県小湊)の半農半漁の土地で生誕したと言われています。父は貫名重忠、母は梅菊と言われていますが、高貴な出自ではありません。ただ荘園を所有する「領家の尼」とも繫がりがあった事から、地域の有力者の子供ではなかったかと言われています。

 幼少の頃に清澄寺の道善房に見いだされ、清澄寺で出家して修学の後、当時の仏教の最高学府である比叡山延暦寺で修学したと言われていますが、ここから考えると幼少期からかなり聡明な人物だと見られていたのでしょう。

 この日蓮が何故仏教を学んだのか。破良観等御書には「幼少の時より学文に心をかけし上大虚空蔵菩薩の御宝前に願を立て日本第一の智者となし給へ、十二のとしより此の願を立つ其の所願に子細あり今くはしくのせがたし」とあります。ここでは「日本一の智者に」と清澄寺の虚空蔵菩薩の前で願を掛けた事が明かされていますが、その理由については「子細があるので、ここでは載せられない」と言っています。しかし神国王御書を読んでみると、略して言えば日本とは、仏教が隆盛した国であり、しかも天照大神にも守られた国であるのに「彼の安徳と隠岐と阿波佐渡等の王は相伝の所従等にせめられて或は殺され或は島に放れ或は鬼となり或は大地獄には堕ち給いしぞ」と言う様に、源平合戦から始まり承久の乱に至るまでの間、皇統も乱れ、歴代の天皇でも殺害され、島流しになり、中には鬼と化した人物も居た事を云い、これだけこの日本という国が混乱しているのは何故なのか、という想いがあった様です。

 日蓮が生誕した年は「承久の乱」の翌年です。承久の乱では、それまで日本の統治者であった天皇が、時の幕府に敗れ、日本で初めて本格的な武家政権(鎌倉幕府)が実権を握りました。
 日本ではそれまで朝廷が全国各地を統治していましたが、鎌倉幕府は「守護・地頭」を全国的に設置してその支配権を強めました。そしてそれは日蓮が生まれ育った土地でも混乱等を引き起こしていました。それは後に地頭の東条氏と領家の尼の訴訟に日蓮が関与し、時の御成敗式目に基づき日蓮は言論を展開、地頭の東条氏の横車から領家の尼の荘園を守る活動をしたのです。この様に新興勢力の幕府と、そこで起きた権力の二重構造の社会の中での様々な混乱、またそれによる様々な惨劇悲劇が鎌倉を中心に全国で溢れていたのでしょう。

 また混乱の要因はこれだけではありません。日蓮が生きた時代では、幾度も大地震が発生し、疫病も大流行、また干ばつ等により飢饉も度々起きていました。そこでは多くの人達が亡くなり、先の社会的な混乱もあわさり当に世の中は「末法」そのものの姿になっていたと思われます。「飢疫に逼られ乞客目に溢れ死人眼に満てり、臥せる屍を観と為し並べる尸を橋と作す」という言葉が立正安国論冒頭にありますが、これはけして誇張した表現では無かったのです。

 そして日蓮は比叡山での修学を終え、その中で掴んだ結論を立正安国論の冒頭で明かしました。それはこの社会の混乱と悲劇の元凶について。

倩ら微管を傾け聊か経文を披きたるに世皆正に背き人悉く悪に帰す

 という事であり、その結果として。

故に善神は国を捨てて相去り聖人は所を辞して還りたまわず、是れを以て魔来り鬼来り災起り難起る言わずんばある可からず恐れずんばある可からず。

 という様に、この世の中には悪鬼や魔が跋扈し、様々な災害や苦難が起きているという事だったのです。

◆「正に背き悉く悪に帰す」とは。
 日蓮が述べた「正に背き悉く悪に帰す」とは一体どの様な事なのか。
 日蓮が亡くなった後の日蓮宗系ではこの「正に背き」とは「仏教の根本経典である法華経を蔑ろにし」という事だとし、「悪に帰す」という事を「法華経以外の経典を重要だと考える間違えた仏教観」だと解釈しました。戦前に作られた創価学会では「富士宮大石寺の大本尊(日蓮直筆の曼荼羅)」を中心とした賢樹院日寛師の教えを中心に置き、そこに価値論の解釈を添えた創価学会の信仰こそが正しいと断定、他の教団は全て「邪宗教」だと攻撃をしてきました。

 現代に至って創価学会では、姿などはソフト路線にしながらも、公明党という政党を支援し票集めの原理に、この「立正安国論」の「正に背き悉く悪に帰す」を置き、「正しい創価学会が支持する公明党を支援する」事が正義の考え方だとしていて、共産党や立憲民主党等の政党に投票する事を「悪に帰す」という事なんだと、この立正安国論を通して会員に教えているのです。

 これらの事を観てみると、まったく以て日蓮門下というのは、実に救いがたいものだと思います。

 日蓮のこの「立正安国」という理論を現代に解釈するなら、ます換骨奪胎をしなければなりません。何故ならば、日蓮が生きた当時の社会とは、先にも言いましたが「政祭一致」の社会であり、社会の根底には「鎮護国家の仏教」という思想がありました。この思想では、承久の乱や様々な天変地夭が起きた時、それを治めて社会の安寧をもたらす役割は常に仏教が中心となっていました。しかし現代社会では国家機構は整備され、国は資本主義をベースとして議会制民主主義の国家であり、政治は「政教分離」の原則に基づき、特定の宗教を支援も擁護もせず、宗教も政治とは一定の距離を置く事が原則となっています。

 まずはこの違いをよく理解しておかないと、換骨奪胎も何も理解出来ません。日蓮宗系の信者の中には、この立正安国論の中で展開される様々な経典の内容を通して、やれ三災七難だ他国侵逼難だ自界叛逆難だ、中国が責めてくる、北朝鮮が責めてくる、ロシアが責めてくる、大地震が来る、世界の終焉が来るなど、様々な言葉で危機感を煽る輩もいますが、その様に単に立正安国論の内容を、そのまま振り回したところで、何の意味もないばかりか、むしろ社会に対して「カルト思想」をまき散らす結果になってしまいます。

 過去において、大日本帝国陸軍の将官であった石原莞爾は「世界最終戦論」を著しましたが、ここでは国柱会の田中智学による「撰時抄」の一節から「世界戦争は予言的不可避性」という思想を構築しました。そしてその思想は当時の帝国陸軍の中では大きな支持を受け、石原は関東軍参謀の時にこのイデオロギーに基づき満州事変を起こした事は有名な話です。

 だから単に原文の立正安国論を振り回す事に、私は危険性を感じこそすれ、そこに何ら価値すら見いだせないのです。

 日蓮は「政祭一致」の社会で、「鎮護国家の仏教」の思想の立場から、日本仏教の筋目に照らして「正に背き」「悪に帰す」事を徹底して仏教の経論を通して責めました。その立正安国論を現代に語るのであれば、例えば民主主義の思想に照らして考え、社会の中の「正義」と「悪」という事をまずは思索すべきではないでしょうか。そしてその「傍証」として、仏教の哲学を語るという事により、この立正安国論の換骨奪胎を考えなければならないと思うのです。

 まあこれは今段階に於ける、私の個人的な解釈ではありますが。。。

 という事で、この話題をこの先も、もう少し続けていきます。


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