自燈明・法燈明の考察

この時代に立正安国論について考えてみた➂

 さて、立正安国論の3回目の記事となります。

 少し「閑話休題」としての話をします。最近、ツィッターを見ていて感じる事ですが、社会というのが何かおかしな方向へ動き出している感じがしているのは、私だけなのでしょうか。LGBTQに関する世界的な動きもしかり、先日まであった新型コロナとワクチンに関する騒動しかし、日本国内で言うとマイナンバーカード周辺の出来事しかり。日々テレビや大手新聞社から出される情報だけを見て居れば、この事について恐らく疑問を感じる事はないでしょう。しかしネットを通じて様々な情報に触れる機会のある人達は、この様な日本や世界の動きを知った事により様々な思いを感じる様で、それこそ「百花繚乱」よろしくSNS上には様々な異論反論が噴出しています。

 創価学会では聖典化している小説、人間革命の冒頭に「一人の人間における偉大な人間革命は、やがて一国の宿命の転換をも成し遂げ、さらに全人類の宿命の転換をも可能にする」という台詞を乗せて、一人の認識によって社会全体を変える事が可能だという事を述べています。またツィッター等で呟いている人達の中にも、そういった自分の想いで社会を変えたいう考えを持った人も多いように感じます。

 しかし私は最近思うのですが、一人の人間の考え方が社会にダイレクトに反映するというのは、中々難しい事だと想うのです。確かに歴史を振り返ると一人の思想信条により社会が振り回さされた様な出来事というのはあったりします。最悪な例として取り上げるのであれば、アドルフ・ヒトラーがナチスを率いて行った出来事がありますが、それとて実は本当にアドルフ・ヒトラーの考えた事がダイレクトに反映していたのかは考え直さなくてはならない事だと想うのです。

 法華経に説かれている「一念三千」という思想があります。大乗仏教の経典で法華経が最高の経典と呼ばれているのも、この思想があるためだと言われています。この「一念三千」とは人の心の形を説いていますが、そこには人の心が影響を与える世界として「衆生世間」と「国土世間」あると説いています。
 社会の中にいる人達は、日々生活する中で起きる出来事によって様々な心の働きが起きてきます。仏教ではそれを百界千如と呼んでいますが、これは心の外にある出来事によって人は様々な感情を抱き、それにより様々な行動をとります。そしてその行動が原因を作り、その結果を人の心は享受し、またそれは次の出来事の原因にもなっていきます。これを「因果」とか「宿業」と呼んでいて、その因果や宿業は死んだ後も続くと言うのです。そしてこの心の働きとは一個人の範疇に収まらず、社会や生活する環境とも関連すると言うのです。

 人々が集って生活する社会を「衆生世間」と呼びますが、これは単純に一人の心が社会に投影するという事ではありません。社会には様々な人達が生活していますが、その社会で生活する個々の心模様が、まるでプリズムの中の光のように、相互に影響し合いながら社会の様相として現れてくる事を指しています。これは家庭レベルであれば家庭の様相として、地域社会であれば地域の治安や住民感情として、国家というレベルであれば国家単位の動きとして現れてくるのです。そしてそれぞれのレベル毎に人々の住む社会環境は、それに見合う様な環境として現れる。これを「国土世間」言います。

 創価学会の池田大作氏が小説・人間革命の冒頭で述べた「一人の偉大なる人間革命云々」という言葉は、一人の心の働きが、さもダイレクトに社会へ、そして環境へと影響するという様な事だと錯覚させますが、現実にはそこにはプリズムにある偏光現象の様に、個々の心の働きが相互に影響しあうという視点抜けているのです。だから幾ら一人の人間が、例え偉大であったとしても、社会はその偉大な人の心がダイレクトに反映する事はありません。だから安易に「一人の偉大なる人間革命」が例えあったとしても、それは一国の行く末を良く変えたり、また人類がその一人の人間革命で即座に変革するという事はあり得ません。

 では果たしてこの社会に矛盾を感じ、そこを糺したいという想いがある場合、それはどの様に昇華させていけば良いのでしょうか。

 この事についての回答を、私は私なりに持ち始めていますが、今回の記事ではそれを書く事は止めておきます。そこはその矛盾を感じた人、一人ひとりが考えていくべき事であり、そこにこそ大きな意味があると今は思えるからです。

 ただ一つ言える事ですが、日蓮の場合も鎌倉幕府の治世について、そこに様々な矛盾を感じ立正安国論による「国家諌暁」という行動を起こしました。しかしその結果としては様々な迫害にあい、「三度諫めて用いなければ、国を捨て去る」という古代中国の故事に倣い身延の山奥へと姿を隠したという事実です。しかしこの行動は単純なる「遁世」という意味ではなく、そこから先の日蓮の行動を鑑みるに、そこに大きな示唆があると思えるのです。

 という事で、少し脇道にそれた内容となりましたが、立正安国論については続けて読み進めていきたいと思います。


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