久しぶりにブログを更新します。
この異常とも言える酷暑の中、皆さんは如何がお過ごしですか?
我が家では私がテレワークで自宅に籠もり、子供達も夏休みになっているので、常に我が家のエアコンフル稼働。これでは電気代が幾らになるのか、かなり恐怖を感じています。
そう言えば創価学会では、教学試験とかをやるそうで、私の嫁はその受験者を募ることと、また受験者毎に決着責任者とかいう、理由の分からない担当者を付けることに悩んでました。そもそも今の創価学会の教学で、何か学び得ることあったんだっけと疑問に思うのですが、そこは創価学会で、要はイベントとして実施をする事に一生懸命にさせるだけで、どうも内実は問わないようです。
創価学会の活動家達は既に忘却の彼方に飛ばしているようですが、創価学会では2014年11月に会則改定による教義変更を行っていて、そこでは「大石寺にある大本尊は受持の対象とはしない」「日蓮出世の本懐は民衆立仏法の確立」「日寛教学はこの先に見直しを掛けていく」なんて事を言ってました。また創価大学の宮田教授は、当時の日本宗教学会において、創価学会では本仏は日蓮ではなく、釈迦である事を言い、海外では既にそうしていて、日本国内のドメインに関しては日蓮が本仏という歪な教えであったことを明かしました。
さてそれから間もなく十年にもなろうとしてますが、現場の創価学会の活動家達はどうなんでしょうか。毎年何かしらの選挙には必死に取り組んでいますが、自分達が信じる宗教の教えについては全く無頓着で、こういう教学関係の事を全く理解すらしていません。それなのに折伏と言っては新規会員を「幸せになれる」と募る活動をしていたり、「弘教」なんて言っているんですから、私から言わせたら、何を信じて広め、何により幸福になれるはと言っているのか、全く持って意味不明な団体だと思います。
また今回の教学試験では、日蓮の立正安国論を題材にすると言うのですから、近年の公明党の動きを見ていてもこれは「冗談が過ぎる」と言うものです。今の日本を弱体化、混乱させているのは公明党にも大きな責任があり、選挙の集票活動を信仰にしてしまい、民主主義の破壊をしている創価学会の責任について活動家達は認識すら出来ていませんね。
そもそも日蓮は、宗教と社会、そして政治の関わりに関してどの様な考え方を持っていたのか、そこを振り返る意味でも今回は立正安国論について、少し振り返りをしてみたいと思います。そういえば今年行われる教学試験では、立正安国論を学ぶそうですが、正直、今の創価学会の中ではまともに講義出来る人は居ないでしょう。
◆立正安国論について
さてこの御書は「旅客来たりて嘆いて曰く」とあるように、その内容は主人と客人の対話形式で書かれています。要は単なる論文形式のモノではなく、当時の心ある人々の思いを擬似的な対話の中で表して、それに対して仏教僧としての立場から、本来、仏教に基づいた政(まつりごと)として考えなければならない事を述べたものです。
この御書の送り先は先の執権、最明寺入道時頼で時の政治の実力者になっていました。時頼とは過去の日蓮を扱う映画とかには、極悪人の様に書かれたりしてますが、実際の処は政治的なバランス感覚を持ち、しかも全国行脚伝説が出来るほど、人々の声を良く聞く人物であったそうです。そんな人物だからこそ日蓮は提出先の人物として選んだのでしょう。
また今でこそ「政教分離の原則」という言葉がありますが、鎌倉時代には「政祭一致」の社会でした。時の権力者は祭事を大事に考え、何かあれば呪術や占いを信じて、時によっては仏教の仏力法力により、世の中の安寧を祈願する。そんな社会だったのです。そもそも仏教が日本国内に入ってのは「鎮護国家の教え」として入ってきており、仏教とは時の朝廷を守り、国の安寧を祈る教えでした。だから仏教僧は「官僧(今で言う国家公務員の様な立場)」であり、勝手に出家する事は許されておらず、平安時代までは一般庶民に僧侶が仏教を教え広めることも禁止されていました。
立正安国論を読むならば、先ずはこういった当時の社会的な背景を理解していなければならないのです。
この立正安国論ですが、これは日蓮による「預言の書」の様に捉えられています。ここでは経典で述べられている三災七難のうち、二難、これは自界叛逆難と他国侵逼難の事を指しており、はからずもこの二難はのちの「二月騒動(北条時輔の乱)」と「元寇(文永・弘安の役)」という事で現実化しました。この事をもって後の日蓮宗や日蓮正宗などの日蓮系の教団では、やれ日蓮が御本仏だから知悉していたとか、上行菩薩の再誕であるから等と言いますが、私はこれを「日蓮が社会を良く観察し、情報を得て分析していた事」によると考えています。
日蓮がこの御書を差し出す際に、最明寺入道時頼の家人である宿屋入道光則を通して行いました。日蓮は当時、鎌倉に在住していましたが、一体どの様に、時の実権者である時頼の家人の宿屋入道と知遇を得る立場になりえたのか。そこについての考察を文面にすると、それだけでも大した文量になってしまうので、そこは割愛しますが、一言で言えばこの宿屋入道との関係から考えて日蓮は当時の鎌倉に於いて、それなりの人脈を構築して情報網を持っていたことを示しています。人脈と情報網があれば、幕府内にある不穏な事、また当時の鎌倉には日宋貿易に関わる人もいた事から、中国大陸で元という国が勃興し、そこで何が起きているかは知っていたでしょう。そしてそこから経典にある二難を絡めて諫言した事は、何も不可思議な事ではありません。
要は日蓮は単なる仏教僧というだけではなく、社会をよく洞察していた人物だったと言えるでしょう。しかもそれだけではなく、それを発信する胆力に長けていた人物と見るべきであり、そこに宗教的な不可思議な能力という、色眼鏡を付けて見るべきではないのです。
◆鎮護国家の仏教
またこの立正安国論では、大集経や金光明最勝王経を多く引用していますが、これはこの立正安国論の根底に「鎮護国家の仏教」という思想が流れている事を意味します。天平の時代に仏教が百済から日本に伝来し、日本の中で根付く際、日本は鎮護国家の仏教として受け入れたのですが、その鎮護国家の仏教では「鎮護国家三部経」というのが定められました。それは「大集経」「金光明最勝経」「法華経」の三部経です。日本では何か災害がある度に、僧侶たちは儀式としてこの経典を講義し、その経典の持つ仏力法力に頼ってきました。
つまり日蓮はこの立正安国論を以って、最明寺入道時頼に対して、鎮護国家の仏教という事をベースとして「正を立て、国を安ずる」という事を示し、政について諫めようとしていたと言えるでしょう。
よく日蓮は「独善的」であると言い、自分自身の教えだけが正しい事を主張していたと言われています。しかしこの立正安国論の位置付けを理解すると、けして日蓮は独善的に自分の説く教えだけが正しいという事を主張していた訳ではないという事が理解できると思うのです。
過去に日蓮正宗、また創価学会ではこの「立正安国論」を講義する書籍を多く出して来ました。しかし現代において、どこそこの経典にこんな事があるから、とか、過去の仏教僧の言葉にはこんな事が述べられているといった、教条的な講義をしたところで立正安国論の意義が伝わるとは思えません。それはむしろ現代に於いて日蓮の主張していた事を、間違えて伝えてしまう事にも成ると思います。
日蓮は確かに鎮護国家の仏教に基づき、この立正安国論を著しましたが、そこには過去の官僧たちが行った様に「儀式」として講義をしていた訳では無く、あくまでも「法華経」を中心とした仏教の思想として、経典を指し示していました。大集経や金明光最勝経、涅槃経やその他の経典でいう「是の経」とは「法華経」であるとして、それらの経典を解釈しています。つまり日蓮は経典を単なる儀式としての講義によって、仏力法力を出すための「摩訶不思議な存在」としての経典ではなく、仏教という哲理の中に於ける説明書としての経典と解釈をしていたのです。
そういった観点で、この立正安国論を捉えるできではないでしょうか。
ではこの立正安国論からみて、今の時代の日本や世界はどうなのか。そこについて、少し考えを進めてみたいと思いますが、それは次回の記事からという事で。