ここまで立正安国論について、私が御書本文を読みながら思索をしてきた内容について、簡単にですがここまで述べてみました。こちらの方はいずれ別にホームページでまとめてみたいと思いながら書いています。
私は創価学会の中で、幾度かこの立正安国論の内容について講義を聞いてきましたが、そこでは正法が廃れる事で三災七難が起きるとか、その原因は諸天善神が居なくなるからだとか教えられて来ました。しかしそもそも三災七難で書かれる事は、詳細はどうあれ、いつの時代でも起きている事ですし、諸天善神というのは具体的にどういう事なのか、そこについては教えられた事はありません。
創価学会では選挙を始めとして、組織的に社会への働きかけを行う根拠としてこの立正安国論を引用しています。しかしそれはあくまでも組織活動を肯定する為に、我田引水としてこの論を利用しているに過ぎない。これが私が四半世紀以上に渡り、創価学会の中で活動してきた実感なのです。だから活動を止めた時からこの立正安国論について再度思索を始めました。
さて立正安国論について、今回も続けます。
◆土着する宗教について
立正安国論では仁王経で以下の部分を引用しています。
「仁王経に云く「国土乱れん時は先ず鬼神乱る鬼神乱るるが故に万民乱る賊来つて国を刧かし百姓亡喪し臣君太子王子百官共に是非を生ぜん」
この部分は主人が客人の質問に回答する部分の言葉ですが、ここでは国が乱れる場合には「鬼神」が乱れる、と言う仁王経の部分を引用しています。この部分について創価学会や日蓮正宗でも「鬼神」とは「思想」だと言い、思想が乱れるから人々の中に混乱が生じ、結果として他国から賊が来て国が脅かされるという事を述べています。
しかし「鬼神(鬼の神)」が何故「思想」なのか。その具体的な事については、何ら言及すらしていません。
私はこの事については常に疑問を持っていたのですが、自分で読み進める中で、この事を少し深堀してみました。すると古代中国の老子の墨家思想の中にこのヒントがありました。
墨家思想の中には、悪を食らう「鬼神」について述べられており、この鬼神が狂うと善悪の見境が無くなるという事があります。つまり「鬼神が乱れる」というのは、社会の「善悪の基準」が乱れるという解釈もここから成り立ったりします。
墨家思想の中には、悪を食らう「鬼神」について述べられており、この鬼神が狂うと善悪の見境が無くなるという事があります。つまり「鬼神が乱れる」というのは、社会の「善悪の基準」が乱れるという解釈もここから成り立ったりします。
つまり社会の中で、何か良い事なのか、何が悪い事なのかという基準がくるってしまう事で、その社会の人々の中では混乱が生じてしまい、結果として国をも滅ぼしてしまう。この仁王経の部分はその事を述べているのではないでしょうか。
考えてみれば仏教が中国に伝来したのは、1世紀頃だと言われています。インドの思想が中国に土着する際、先に中国にあった儒教や道教と交じり合う事というのは考えられる事であり、この事については日蓮も開目抄などで当時の状況を引用している部分があるほどです。
「後漢已後に釈教わたりて対論の後釈教やうやく流布する程に釈教の僧侶破戒のゆへに或は還俗して家にかへり或は俗に心をあはせ儒道の内に釈教を盗み入れたり」
ここでは儒教や道教に仏教の思想を盗み入れた輩がいると言っていますが、その逆もまた真であり、それは仏教を説明する際、必要に応じて当時中国内に流布していた儒教や道教を引用して仏教思想を説明するという事も盛んにおこなわれていた様です。その際に老子の思想も仏教に混入した事は、容易に想像がつくというものです。
これはあくまで私の一私見ですが、仁王経を漢訳され中国に土着する際、この墨家思想の「鬼神」という考え方が混入し、この「鬼神乱る」の部分が出来上がったという事も充分に考えられるのではないでしょうか。
私はこの様な部分というのは、他の経典にも多くあり、日本に伝来した漢訳の各経典の中には、古代中国の思想も多く混入していると考えています。そしてそんな経典を元にして、日本では「鎮護国家の仏教」というのも成立した可能性はあるのではないでしょうか。
◆鎌倉時代の仏教について
日蓮は立正安国論で、当時の仏教界を痛烈に批判しました。そしてこの論ではその批判の矛先として法然の弘めた念仏宗に向けています。しかし当時の仏教界はどの様なものなのか、そこについて少し振り返りをしてみる必要があります。
日蓮の居た時代(1218年~1259年)、鎌倉に建立された寺院は真言宗が5寺院、浄土宗が3寺院、臨済宗が4寺院となっています。これで12寺院となりますが、その間、社会では鎌倉の大地震、寛喜の大飢饉、宝治の合戦、正嘉の大地震という大きな災害などが頻発していました。鎌倉時代当時は現代ほど社会的なインフラも無いので、恐らく地方も含めれば社会の中には様々な災害があって、人々は苦しんでいたのが容易に想像できます。しかしそんな世情にも関わらず、鎌倉幕府は大規模な寺院の建立を進めていました。
この大規模寺院の建立とは、現在で言えば公共事業にも該当するので、そこに雇用も発生し、世の中の為になっていた部分もあったと思いますが、本来、人々を救済する仏教であれば、果たしてそれを容認して良いのか。その様な考え方が日蓮の中にもあったのではないでしょうか。
鎌倉幕府は承久の乱以降、鎌倉を京に負けない文化都市とする、という方針があった様で、多くの寺院を建立しては、京都から高名な僧侶を招聘していたと言いますが、恐らくその陰では仏教界と幕府の間での利権的な関係も存在していたのも容易に想像が出来るのです。日蓮が当時の仏教界に対して、立正安国論で痛烈な批判を行ったのも、そういう当時の仏教界と鎌倉幕府との関係があったからではないでしょうか。