男子部時代には、かなり無茶苦茶な生活をしていたせいか、壮年部と言われる年齢になって生活習慣病を患ってしまいました。青年部当時は本当に「いつ死んでも良い!」なんて考えていましたので、寝る時間を惜しんで学会活動や仕事に没頭していましたから、当たり前と言えば当たり前なのでしょう。休日なんて年に一週間程度しか取っていませんでした。
そういう事もあり、四十代を過ぎた時、体のあちらこちらが悲鳴をあげてしまい、定期的に通院する様になり、もう既に十数年ほど経ってしまいました。
もう少し健康に留意して生活していれば良かったのかもしれませんが、こればかりは後悔先に立たずというやつで、致し方ない事なのでしょう。でも当時の私は真剣に「こんな自分の行動でも、社会平和の為になるなら」と考えていた訳です。
だからまさか信濃町やら創価学会の周辺が、こんな体たらくであったとは、当初は認める事が出来なかった事を覚えています。
私が日蓮の御書を読むというのも、そういう自分の人生を振り返るという意味もあると思っていまして、その意味で自分自身、淡々と進めているのです。
さて、先日まで立正安国論について書かせてもらいましたが、その後、開目抄を読み始めています。
さて、開目抄の事を語る前に、この開目抄に至るまでの前提について、少し書いてみたいと思います。御書講義でいう処の背景と大意という奴ですね。
日蓮の波乱万丈の人生は、立正安国論の上呈から始まりました。立正安国論は最明寺入道時頼に対して、当時の鎌倉仏教界への指弾と、それを助長している幕府の姿勢に対しての手厳しい指摘でした。
この御書を受け取った最明寺入道(北条時頼)は、よく過去の日蓮の映画や物語では暴君の様に書かれたりしていましたが、実際にそんな暴君だった場合、当時の北条家や鎌倉幕府を取り纏める事は出来なかったでしょう。様々な歴史の逸話に見える時頼像とは、周囲の意見について良く耳を傾ける人物であった様です。
恐らく執事である宿屋禅門から手渡された立正安国論を読み、それを捨てることなく幕府要人に回覧させて、まずは幕府内の意見を求めたのではないでしょうか。
「賢王聖主の御世ならば日本第一の権状にもをこなわれ現身に大師号もあるべし定めて御たづねありていくさの僉義をもいゐあわせ調伏なんども申しつけられぬらんとをもひしに其の義なかりしかば」
(種種御振舞御書)
当時の事を日蓮はこの様に述懐していますが、これは恐らく幕府内に回覧した期間が長かった事と思われます。日蓮にしてみたら、一世一代の上呈であった事から、それに対する幕府の回答を待ち侘びましたが、何ら回答も無く、無視されたと感じていたのでしょう。
しかしこの間、実は幕府の中で日蓮に対する反感は、一部の要人を中心にして溜まり始めていたのでしょう。それが「松葉が谷の法難」として、上呈から一ヶ月経った頃に、日蓮の活動拠点である草庵への襲撃という形で顕在化しました。この背景には鎌倉仏教界と関りのあった北条重時が居たと思われます。これは日蓮の指弾に対して正面切って反論出来ない幕府内の事情があって、その為に、いわば「私的制裁(リンチ)」という形を採ったという事なのでしょう。
拠点であった草庵を破壊された日蓮は、このあと一時期鎌倉を離れ、下総の富木常忍の下へ避難します。鎌倉幕府としては、これで日蓮は大人しくなると考えたのではないでしょうか。しかし日蓮は懲りずに再度、鎌倉の町に戻ってきます。そうなると幕府としてもその日蓮を放置する事は難しい事から、罪を作り上げ、日蓮を伊豆に流罪としました。
この流罪というのは、社会から放逐する刑罰で、これにより日蓮は社会的には復帰困難になるところ、逆に伊豆流罪の中でも、地頭の伊東氏に対して病の平癒をもって信頼を得る様になり、二年半ほどで鎌倉へ戻ってきてしまったのです。その後、鎌倉に戻った日蓮は、いや増して活動を活発化させてしまったので、幕府としても忌々しく思っていたのではないでしょうか。
そんな中、文永五年(1268年)に蒙古より日本に対して、再度、牒状届きました。恐らく幕府の中は、この蒙古国の牒状をめぐり、様々な議論が渦巻いていたのではないでしょうか。その中で日蓮は自身が立正安国論で預言していた「他国侵逼難」が眼前に見えてきた事から、危機感を持ったのでしょう。
「其の年の末十月に十一通の状をかきてかたがたへをどろかし申す、国に賢人なんどもあるならば不思議なる事かなこれはひとへにただ事にはあらず、天照太神正八幡宮の比の僧について日本国のたすかるべき事を御計らいのあるかとをもわるべきにさはなくて或は使を悪口し或はあざむき或はとりも入れず或は返事もなし或は返事をなせども上へも申さずこれひとへにただ事にはあらず」
(種種御振舞御書)
日蓮の主たる相手は鎌倉の仏教界でした。だから「十一通御書」と言われる書状を、当時の鎌倉の大寺院や幕府の重役等に送りましたが、結果、この御書にもある様に、日蓮に対する悪口誹謗は日ごとに増して行ったのでしょう。
しかし日蓮は一歩も怯まず、鎌倉仏教界を始め、時の幕府に対する指弾の姿勢を強めていきました。
そして文永八年(1271年)の9月に、日蓮は幕府の評定所に呼び出されます。幕府にしてみたら、一度、話は公式に聞いてやる、という事だったのでしょう。
またその翌日には北条得宗家の被官であり、当時の幕府の実力者である平左衛門尉頼綱に対しても諫言をしました。これは想像ですが、恐らく時の幕府内は、この蒙古国に対する姿勢でかなり動揺していたのではないでしょうか。そこに対して、幕府からみたら騒ぎ立てる日蓮を目障りだと思ったのかもしれません。
結果、幕府の正式決定では無い「闇討ち的な斬首」という事が、執権経験者であり北条重時(この時には既に没して久しい)の子息であった、北条長時の独断で裁可されたと思うのです。
「これほどの悦びをばわらへかし、いかにやくそくをばたがへらるるぞと申せし時、江のしまのかたより月のごとくひかりたる物まりのやうにて辰巳のかたより戌亥のかたへひかりわたる、十二日の夜のあけぐれ人の面もみへざりしが物のひかり月よのやうにて人人の面もみなみゆ、太刀取目くらみたふれ臥し兵共おぢ怖れけうさめて一町計りはせのき、或は馬よりをりてかしこまり或は馬の上にてうずくまれるもあり」
(種種御振舞御書)
ここで「龍ノ口の法難」と「光物伝説」が出てくるわけですが、光物については恐らくこれは何かの暗喩であったと思います。日蓮は御書の中で、様々な暗喩を用いています。一つは「生身の虚空蔵菩薩から智慧の宝珠」を受け取ったという話や、この龍ノ口に於ける光物もその一つでしょう。
このあたりの考察については、山中耕一郎氏が自著の中で詳細に考察をしていて、私としてもその説を受け入れています。詳細は山中氏の書籍を見てください。
ただ一つ思う事ですが、これを彗星とか流星という解釈をしている人もいますが、2013年にロシアのチェリャビンスク州に隕石が落下した時、多くの映像が記録されています。そこでは隕石に伴う衝撃波等が目に見える形でありました。しかし日蓮の光物については、同様の記述が、例えば鎌倉幕府の公式記録ともいえる「吾妻鏡」等にも記録されていない事から、そのような目に見える現象は無かったと見る事が正解かと思うのです。
うーん、、、開目抄の背景と大意を語るつもりが、以外と長くなっています。
この続きは次回に。
(続きます)