自燈明・法燈明の考察

五老僧について①

 書きたい事が沢山あり、その都度このブログで書いていますが、こうしてみると、どうも書き散らしている感じも否めない状況になっています。でもまあ、いずれは「自燈明・法燈明サイト」の方に、このブログで書き連ねた内容については整理してまとめようと思っていますので、とにかく思いついた事について書いていきます。

 さて、今回はツィッターで見かけた「五一相対」という事について、少し私が調べた内容についてまとめてみたいと思います。



 この「五一相対」とは、日興門流で言われる事で、主に日蓮正宗で語られている事です。具体的には日蓮は池上本門寺で亡くなる際、門弟の中から中心となる人物について六人定めました。これが「六老僧」という弟子たちです。

 ・弁阿闍梨  日昭(61歳*)
 ・大国阿闍梨 日朗(37歳*)
 ・白蓮阿闍梨 日興(36歳*)
 ・民部阿闍梨 日向(29歳*)
 ・伊予阿闍梨 日頂(30歳*)
 ・蓮華阿闍梨 日持(32歳*)
*年齢は日蓮の亡くなった時の年齢を、各人の生年と日蓮の没年から計算しています。(若干ずれがあるかもしれません)

 これが定められた事は「宗祖御遷化記録-日興師著」に書かれており、日蓮亡くなる前、弘安五年十月八日に池上邸に於いてと言われています。この六老僧の中で、日蓮没後の起きた日興師・対・五老僧という視点で語られたものが「五一相対」という事で、その元となったのは「五人所破抄」「富士一跡門徒存知事」という2つの文献です。

 日蓮正宗や創価学会では、この対立の事から「五老僧」を「忘恩の輩」とか「師敵対の弟子」という事で語られていますが、果たしてそんな単純な事なのでしょうか。実はこの六老僧の歴史を俯瞰してみて、少し考えた時に、別の姿が見えてきたりもします。

 五一相対を考える前に、先ずはこの六老僧の人となりについて、少し振り返りをしてみたいと思います。

◆弁阿闍梨 日昭
 日蓮宗宗学全集にある「玉沢手鏡」によると、日昭師は承久二年(1221年)に下総猿島郡印東領(現在の茨城県坂東市近辺)で出生し、父親は印東次郎左衛門尉佑照、母親は印東大和守佑時の娘と言われていますが、明確な事は実は判っていません。
 日昭師は比叡山では日蓮と同学であり、一歳年長であったと言われていて、一説には幼少のときに出家したといいます。比叡山では尊海を師僧として修学し、秀英と認められ、日昭師は比叡山で十八歳で「権律師」という僧位僧官をも得る事が出来ました。その事もあって日昭師は摂政左大臣兼経の猶子となっています。
 日昭師が日蓮の門下となったのは、建長五年と言われていますが、恐らくそれ以前、比叡山で日蓮と知り合い、同じ志を持っていたのかもしれません。また日蓮が下総の千葉氏やその家人である富木常忍と人間関係を築けたのも、そこに日昭師が関与したという説もあり、この事から考えても、日昭師は門下というよりは「共同経営者」的な立場であったと思われます。

◆大国阿闍梨 日朗
 日朗師は寛元三年(1245年)に、下総海上郡能手郷に生まれました。日昭上人の妹の夫で義弟にあたる平賀二郎有国の子で、日昭師の甥にあたります。文応元年、十六歳の時に日蓮の門下となりました。その後、日蓮に仕え給仕した事から「師孝第一」とも言われ、文永八年(1271年)に、日蓮が佐渡流罪になった時には、土牢に押し込めとなりました。その後、文永十一年(1274年)には、佐渡流罪の日蓮のもとを八回も訪れ、赦免状を携えて佐渡に渡る役目も果たしたと言われています。
 日興師とは一つ年上の兄弟子という立場にいましたが、日興師は駿河方面を活動拠点にしていましたが、日朗師は叔父の日昭師と共に鎌倉を活動拠点としていました。

◆白蓮阿闍梨 日興
 日興師は寛元四年(1246年)に、甲斐国大井庄鰍沢(山梨県富士川町鰍沢)で、父親は大井橘六(おおいきつろく) 、母は富士上方河合の由比家(ゆいけ)の女性の間に誕生しました。しかし幼くして父親を亡くしたようで、直ぐに河合の地へ移り、蒲原の四十九院という天台宗の寺院に入って修行していたようです。
 正嘉二年(1258年)、日蓮が「立正安国論」の一書をまとめるために、程近い岩本実相寺を訪れていました。日興上人は、ここで日蓮大聖人に教えを乞い、弟子の一人に加えれれ、伯耆房という房号と日興と名を頂いたといいます。この時、日興上人は十二歳でした。恐らく当時、鎌倉で知名度が上がっていた日蓮の噂を耳にして興味を惹かれ、実相寺を日興上人は訪れたのではないでしょうか。当時の日蓮は三十六歳。日興上人から見たら、活気みなぎる大人物の姿に、その場で入門を決意したのではないかと思います。ただし当時十二歳の少年であった日興上人は、すぐに日蓮の下にはせ参じる事は難しかったのではないかと推察します。何故なら当時の日興上人は四十九院の若輩の修行僧であった事、また後世に日蓮の法門を理解しえたという事は、利発であった事も伺えますので、その様な招来有望な少年を、四十九院が直ぐに手放すという事は無かったのではないでしょうか。
 しかし弘長元年(1261年)五月十二日、日蓮は伊豆に流罪された時に日興上人が常隋給仕した事が、日蓮正宗の文献『日興上人詳伝』に書かれていますので、日蓮に出会って三年以内にその元に駆けつけた事が想定できます。
 文永八年(1271年)十月十日、日蓮が佐渡流罪の際、日興が同行して常随給仕をしたと言います。文永十一年(1274年)、佐渡一ノ谷を出発し鎌倉幕府に日蓮が三度目の諌暁を行い、その後、身延山に入ると日興上人は甲斐、駿河で布教を進めました。そしてこのころ後に少年で後に日目と名乗る少年と日興に出会ったと言います。
 建治元年(1275年)一月下旬、南条家に到り故兵衛七郎行増の墓に代参し、富士下方を弘教した。日興の教化により後の熱原の法難で中心者となる下野房日秀・越後房日弁・少輔房日禅。その他、三河房頼円、及び在家若干が折伏して弟子としました。
 建治二年(1276年)四月八日、日目上人を得度。
 弘安二年(1279年)十月十二日、日蓮は熱原の事を受けて、書を日興のほか、日秀・日弁等に報じ滝泉寺申状草案を与えました。そして十月十五日、日興等、鎌倉より日蓮に法難の状を急報します。それを受けて日蓮は十月十七日に書を日興はじめ日秀・日弁等に送りました。
 その後日蓮は、日興に文永十一年(1274年)十二月の本尊〔万年救護本尊〕を与えられました。
 その後、弘安三年(1280年)二月、日興上人は、遠江の新池家にいましたが、弘安四年(1281年)、日興上人は園城寺申状を持ち日蓮の代理として代奏します〔初度天奏〕。これは日蓮の法門について、日蓮門下の中で理解度が高かったという事を示す事だとも言えます。

◆民部阿闍梨 日向
 日向師は建長五年(1253年)に安房国の尾金で生まれたと言います。十三歳で日蓮門下となり出家得道してからは、折伏弘教に日々奔走したと言われています。日蓮門下では「論議第一」と言われ、1276年には日蓮の代理として、日蓮の師匠である道善房の墓前で「報恩抄」を朗読しました。1280年には日蓮による法華経講義の記録である「御講聞書」を著しました。

◆伊予阿闍梨 日頂
 日頂師は建長四年(1252年)に下総国で生まれ、日蓮の有力な檀越である富木常忍の養子となり、幼くして日蓮門下となりました。日蓮の佐渡流罪の際にも日蓮に従い給仕したと言われており、身延山では本圀院山本坊を創り日蓮の墓所の輪番に参加していました。下総国真間(現在の千葉県市川市真間)の弘法寺を拠点として布教につとめたと言います。

◆蓮華阿闍梨 日持
 日持師は建長二年(1250年)に生まれたといいますが、出自についての詳細は判っていません。初め駿河国蒲原の天台宗寺院四十九院で日興に師事して、天台教学を学びましたが、その後、日興とともに追放され、日蓮の門下となりました。日蓮の没後は日興師とは不仲となり、正応元年(1288年)日浄とともに願主となって武蔵国池上本門寺に祖師像を安置しました。 その後の消息は不明でですが、一説によると、彼は海外布教を目指して新潟から秋田、青森、函館、松前、江差を経て渡樺し、本斗郡好仁村の白主、永仁三年(1295年)樺太の本斗郡本斗町阿幸に上陸した後、北樺太の落石(オッチシ)から海外布教を志し満洲に渡ったとも、蝦夷地で没したとも言われています。なお、日持の大陸渡航説は、江戸時代以前から存在するものとされています。

 以上が六老僧の概略です。この六老僧が、日蓮没後にどの様な行動を取ったのか、それは次回に致します。

(続く)


クリックをお願いします。

名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

  • Xでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最新の画像もっと見る

最近の「日蓮正宗・顕正会関連」カテゴリーもっと見る

最近の記事
バックナンバー
人気記事