自燈明・法燈明の考察

五老僧について②

 五老僧の事について続けます。
 昨日の記事では六老僧についての紹介を書きました。「五一相対」の根本には日興師が日蓮の正統後継者であるか、否か。そこに掛かっているように思うのです。「五一相対」の背景には、日蓮の正統後継者たる日興師と、傍流である五老僧との確執という構図が背景としてあって語られています。日蓮正宗では、この日興師が正統後継者である証として「身延相承書」「池上相承書」の2つをもって、その証としています。

 しかし本当に日蓮はその様に書面を以て、日興師を次の別当(責任者)として定めたのでしょうか。そこについて少し史実をみて考えてみたいと思います。


(身延相承書)
(池上相承書)

◆日蓮の葬送の序列
 先に紹介した「宗祖御遷化記録」には、墓輪番以外にも日蓮の葬送に関する事も記録されています。その資料を見ると、葬列では先陣が日朗師、後陣は日昭師となっています。葬儀に於いては後陣の日昭師が大導師となり、副導師は先陣の日昭師が勤めています。この葬列で日興師は左列の中ほど、棺の左側にいました。これは日興師は葬儀の中心人物ではなく、中心の門下僧の一人という立ち位置であって、ここからは唯受一人の後継者という事は見えません。

 また六老僧を定めた事についても、同様に御遷化記録にありますが、そこに六人を定めた際に「不次第」とあり、そこに序列が無いと日蓮が定めた事も記載されているのです。ここから考えると、日蓮は亡くなる前に六老僧を定めた真意は、教団を六人で共に支え合う事を想定していても、自身の後継者として日興師を定めたという事はなく、日興師もそれは同様の理解であったと思うのです。

◆二箇相承の問題
 そもそも何故、日蓮は二つの相承書を認めたのでしょうか。通常、書面で示すのであれば一通あれば十分なはずです。「百六箇抄」には以下の文があります。

「今以つて是くの如し六人以下数輩の弟子有りと雖も日興を以て結要付属の大将と定むる者なり。」

 この百六箇抄は弘安三年の著作とありますが、そうなると日蓮は既に弘安三年の段階で、日興師を後継者として定めていた事になります。熱原の法難の直後の時期です。そうであれば猶更、身延相承書だけでも事足りるはずですが、そこに敢えて池上相承書を記述したのには、そうしなければならない事が既に日蓮教団の中にあったという事なのでしょうか。

 また先の日興師による御遷化記録では、六老僧を決めた際に「不次第」とあり、そこには序列としての上下が無いと定めています。しかしその後、池上相承書を認めたという事は、言葉が悪いのですが、日蓮は中心となる門下に対して「二枚舌」を使った様にも見えるのです。

 百六箇抄(後継者は日興師)→身延相承書(後継者は日興師)→六老僧定め(後継者は六人)→池上相承書(後継者は日興師)

 日蓮の生涯の言動は、常に「裏の言葉」などなく、常に堂々とした言論であったはずなのに、この六老僧や日興師への後継者使命は、その堂々とした言論ではなく、後継者は六名としながら、その裏では日興師が次だという様な、かなりブレている言動にも見えてしまうのです。

 またこの「二箇相承書」は、大石寺が語るには武田の乱(永禄11年にあった武田氏の駿河侵攻)の際に紛失したと言っています。これら相承書で御書全集に掲載されているものは写本という、写しの文面でしかありません。しかしこの二箇相承については、日興師が日蓮没後に門下を教化する本拠地であった北山重須本門寺の貫首は「ニセモノ」と断言しています。

 以上、これらは全て状況証拠でしかありませんが、そこから考えてみると、やはり二箇相承というのは、後世の偽書であり、日蓮自身が次の後継者として日興師を指名したという証明は、この相承書だけでは困難であると思うのです。

 私は思うに、日興師は日蓮が指名しようが、指名しまいが、自身の自覚の上で「我こそは日蓮の後継者である」という自覚が強かったのでは無いでしょうか。つまり自覚の上で後継者を自任しており、そこから「五一相対」の様な、後世に六老僧の分裂を示す様な言論を、日興門流を中心に、門下の中で巻き起こしたと私は思うのです。

 次回は「五人所破抄」「富士一跡門徒存知事」の文書について、少し見てみます。

(続く)


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