自燈明・法燈明の考察

宗教の目的、表裏

 私は創価学会の組織や活動から離れてもう十年以上になりますが、心身ともにかなり楽になりました。活動家幹部をしていた頃には、日々何かに急き立てられて来ましたが、今ではそれは一切ありません。また思考についても、変に縛りも無くなり様々な事を自由に考える事も出来るようになりました。

 でも一番楽になったのは、知人を「組織利用」する必要が無くなったということでしょうかね。これはとても大きな変化です。

 宗教とは「魂の自由を得るために必要」と、創価学会では教わってきましたが、最近では宗教の建前はそうであっても、本音は違うところにあるのではないかと考えることも多々あったりします。今回はその事について少し書いてみたいと思いますので、お時間のある方はお付き合い下さい、

◆宗教の分類
 世の中の宗教とは、大きく分けて二種類に分類されると思います。これは天台教判を元にした日蓮の「五重の相対」に親しいものですが、観点が異なります。

 一つは自身の心の外に、諸法(様々な出来事)の説明を求める宗教と、もう一つは自身の心の中に説明を求める宗教です。これは「内外相対」の事だと思うでしょうが、私はこれは宗教や宗派で分類されるものではないと思っています。これを分けるのはあくまでも宗教を信じる一人ひとりの信仰に対する認識によると思います。そこから言えば、「宗教」と言わず「信仰」と言ったほうが良いのかもしれません。

 例えば仏教では、その指向性を一人ひとりの心の「内面」へと向けていますが、この仏教が宗教となった場合、多くの人は、やはり観点が「外面」へと向いてしまいます。例えばこれは、仏教では仏菩薩というのも本来は自身の心の中にあるものとしていますが、仏菩薩が偶像化し、仏像などか出現する事をきっかけに、その仏菩薩への「おすがり信仰」という形に変化したりします。創価学会においても「御本尊様信仰」とか「日蓮大聖人信仰」、また一部である「池田先生信仰」というものが、それに該当します。

 人はよく「聖(ひじり)」を求め、その聖を対象として偶像化し、問題や苦難の解決をその聖なるものに求めてしまいます。しかし仏教においては、その問題や苦難の原因が自身の心の中にあると説き、その心を認識・理解して自分として問題の解決を求めるものであるはずですが、現実に人は宗教になると、その宗教の聖の存在による解決を求めてしまいます。

「御本尊様、お助けください」
「御本尊様、祈りを叶えてください」

 私は創価学会をやめた人の中に「これからどう信心してよいか解らない」とか「御本尊様はどうしたらよいのか」という悩み事を耳にしますが、これはそういった事の片鱗を伺わせる事だと思っています。

 一方、例えばキリスト教の事をよく「外道(外に要因を求める宗教)」と創価学会や日蓮正宗関係者は口にしますが、信じている教えがキリスト教であったとしても、実はその教えをきっかけにして心の内面性への洞察が鋭い人もいたりします。そしてそういう人はけして神様に依存する事なく、その信じているというキリスト教の教えから、とても内面的な解釈を引き出し、物事をとらえていたりもします。

 つまる処、宗教には内面的な宗教(内道)と外面的な宗教(外道)というものは教えの形としては存在しますだ、それを内道とするのか、外道とするのかは、あくまでもそれを信じて信仰する一人ひとりの心の中に、これら二つの分類というのは存在するという事なのでしょう。

◆外道信仰の脆弱性
 さて、この二つの信仰のうち、外道信仰では自分の心以外の存在に、様々な事を依存する傾向も強いことから、こういう信仰で人はいとも容易く操作をされてしまうという脆弱性が人にはある様です。

 よく宗教で「信者」と書いて「儲け」と揶揄される事がありますが、これはそういった人間共通にあるところの「宗教に対する脆弱性」を的確に表現した言葉だと思うのです。恐らくこの脆弱性とは、人間の遺伝子レベルに組み込まれているものであり、そう容易く克服出来る事ではないでしょう。世界に目を向けて、例えばイスラム教原理主義者による「自爆テロ」というのは、そういった人間の脆弱性を利用された結果ではないでしょうか。
 人間というか、動物一般では自身を殺すことには大きな抵抗感があるものです。しかし人間は、自身の信じる宗教により自死を喜んで受け入れ実行する事が出来てしまうのです。これは人間が宗教に対する脆弱性を持つからであり、世界を震撼させた自爆テロの行為の影に、私はそういう事を見てしまうのです。
 またこれは何もそんな過激な事だけではありませんが、宗教の美名の元、人は「正義」と信じることで、とても残虐な行為を平気で行う事も出来たりします。こちらは創価学会や日蓮正宗、また顕正会でも多く見受けられますが、これもこの人間の宗教に対する脆弱性のなせる仕業なのでしょう。

 もし人が内面的な観点による信仰を確立する事が出来るのであれば、そういう行為にもかなり変化をもたらすはずです。しかし一般的な宗教では、残念な事に人は簡単に外道信仰へと依存してしまう事が多く、本来、宗教指導者はその特性を理解して教導をしなければならないのですが、よくいう「職業宗教家」の多くが、こういった人間の心の持つ脆弱性を知り尽くしているが故に、人間を自分達の儲けの手段として利用し、巨万の富を持ち得たり、また人の骨の髄までしゃぶり尽くす様な指導をしたりします。またその宗教を信じる人達の多くも、そういう指導者の思惑に乗る事を、あたかも自分自身の意思に基づく信仰なんだと信じてしまうのです。

よく「宗教への殉教」を説く宗教指導者の心の中には、そういった考えが常にあるのではないでしょうか。

◆屹立した信仰観の確立
 こういった問題を根に持つ宗教ですが、人類は何故、この宗教というものを信じる様な生き物なのでしょうか。哺乳類の霊長類の中でも、この宗教というのは人類固有の持ち物です。犬や猫もそうですが、霊長類でも智慧のあるオラウータンであっても、この宗教観というのは持ち合わせていません。

 私はこの人間にしか無いという「宗教観」とは、実は人類の創生に深く関わっている事ではないかと思うのですが、この詳細に関しては、別の機会に述べるとして、今回、割愛を致します。しかしこの宗教観により、過去に人類の歴史の上では、幾つかの悲劇を引き起こしてもいますので、やはり人類としては乗り越えなくてはいけない事でもあると思うのです。そして、その為に大事なことは「屹立した信仰の確立」という事であり、その為の導入部としてのみ、宗教は存在するだけという事ではないでしょうか。

 人は確かに宗教を必要とするかもしれませんが、その宗教に依存するという精神構造は、そろそろ変えなくてはならないのと私は考えています。 


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