自燈明・法燈明の考察

古代インドの「四住期」について

 さて今回の記事では、人生の区分という事について記事を書いてみます。

 何故この様な記事を書くかと言えば、実はつい先日、私が高校生時代から知っている創価学会の大先輩が亡くなっていたという事を聞きました。私は高校生時代、高等部の部長というのをやっていましたが、その大先輩は男子部の本部長。様々理不尽な事を言われたりしましたが、人は良い人でした。

 その大先輩は男子部で区主任部長をやってから、壮年部に移行し、壮年部では地区部長を一時期やっていたそうです。しかし組織内で何やらイザコザがあって、結果、地区部長を辞める事になったそうです。

 まあ私の周辺には、そんな人達が多く居る訳です。

 昨年にも私が良く知っていた先輩が亡くなりました。共に六十代後半で亡くなってしまいましたが、少し早い気がします。かく言う私も昨年に大病を患いまして、もし昨年に病変が発見されなければ、恐らく数年後に亡くなっていた可能性があった訳です。

 そんな事を振り返ってみると、人生なんてのは限られたものなんですよね。

 そこで考えたのは、古代インドにあった「四住期」という考え方の事でした。これはバラモン教にあった考え方で、バラモン(祭祀階級)、クシャトリア(王族・武人階級)、ヴァイシャ(庶民階級)の男性に適用されたものと言われています。この四住期とは以下の事だそうです。

 ・学生期:師のもとでヴェーダを学ぶ時期
 ・家住期:家庭にあって子をもうけ一家の祭式を主宰する時期
 ・林住期:森林に隠棲して修行する時期
 ・遊行期:一定の住所をもたず乞食遊行する時期

 これを見てみると、今の私は家住期に相当するのかもしれませんが、林住期も間もなくかもしれません。これはバラモン教の考え方なので、今の社会にそのまま適用するという事は出来ませんが、人生を生きて行く中で重要なヒントを与えてくれる気がするのです。

 私も五十代後半になってきました。この年齢になると、夢見る未来よりも省みる過去の方が長いわけで、今までの人生の来し方を振り返り、残り二十年程度の人生に対して、いわば「着陸の仕方」を考え始める必要もあるかなと思う訳です。

 今の社会、ニュースでは年金は六十五歳まで支払い、支給は七十歳からという議論があったり、人生百年の時代なんだから、今までの日本社会の様に「第二の人生」なんて考えずに死ぬまで働くんだ、なんて考え方が主流になりつつある気がします。しかしその一方で、やはり年齢が上がれば体の様々な処に不具合は出てくるし、頭の回転も悪くなってきます。何よりも気力が持たなくなってくる事もあるでしょう。要は人生の様々なステージで、それに応じた生き方というのはあると思うのですが、敢えてそれを見ない様な社会になって来ている気がします。

 いくら肉体を健康に維持しようとしても、人は必ず死んでいく存在です。七十代で亡くなろうと、百歳で亡くなろうと、その差なんてせいぜい三十年あるかないか、それだけの事です。だから古代インドの四住期では無いのですが、やはり人生の年代に相応した生き方という事を、私たちは真面目に考えなければいけないのではないでしょうか。

 「人生実りのあるものとして、豊かに生きて行く」

 この為には、そういった人生の本来ある姿を直視して、考えるべき事を考えて、その年齢相応に為すべき事を為せるよう、考えなければいけないでしょう。

 「死にざま」とは「生き様」以上のものは出来ないと言いますからね。


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